ビキニ環礁シンジケート

書くことが楽しい

日々は光って流れた

 新しい恋には新しい人がいて、その年の冬に僕がほんの数日だけした勘違いにも、その勘違いと同じくらい甘酸っぱくて眩しい人がいた。

  クリスマスにほど近い十二月の金曜日、デート倶楽部で手慰みに買った女の子は僕が指定した通りの制服を着て現れて、ウリなんてしそうもない純粋そうな顔で「日奈香。女子高生だよ」と名乗り、笑いながら「って設定。」と付け足した。

 寒いからどっか入ろうよーという日奈香に「お酒でも飲もっか」と提案して、僕が普段同僚と飲むのに使っている店からは三ランクくらいグレードの高い店へと入った。席に通された彼女はきょろきょろと店内を見渡しながら、でもすぐに行儀のよい少女みたいにちょこんと椅子に座りなおして、そのあと小声で「お兄さん、実は結構遊んでる?」と訝しげに尋ねてきた。

「実はって、モテなさそうな雰囲気なのに、ってこと?」と僕は彼女の正直な言葉に苦笑しながら聞き返すと、彼女は途中でテーブルにやって来たギャルソンがベニエやらカナッペやらとよくわからない料理の説明をし終えるのを待ってから「そういうわけじゃないけど」と言った。

「だって高校の制服を指定してくるし、しかもだよ、あたしは制服着てるのにお酒飲もうって言われて、そりゃこの人大丈夫かなって思うじゃん。なのにこんなお洒落なお店だったから」

 彼女の指摘はもっともで、たしかに制服を着させてきたくせに酒を飲もうと言ってくる相手なんて社会不適合者か、そうじゃなくてもとても女慣れしてるような男がすることではない。僕は笑いながら自分がこの通り遊んでないこと、ただ実際に来た人が想像以上に可愛かったから予定してた安い飲み屋さんを急きょ変更して来たことのない店へ入ったこと、だからさっきの店員さんの説明も実は全く意味が分からなかったこと、なんかを正直に白状した。

 日奈香はそれに対してふうんといった様子で、一応保留にしておきます、と言って、カッコつける必要がなくなった僕は、ところで注文どうしよっかと笑って、やっと彼女も「あたしも全然わからなかったけど、友達にかなっぺって居るからそれだけはちゃんと覚えてた。食べてみたい」と笑い返してくれた。

 僕たちは丁寧に料理の説明をしてくれた先ほどのギャルソンに、二人で選んだカナッペと、適当なワインと彼女の分のミネラルウォーターと、あとはよくわからないので、と一番手ごろなコースを二人分注文した。ギャルソンが気を利かせて「ではコースのオードブルをカナッペに変更いたしますね」と言ってくれて、僕たちはやったねとお互いに目くばせし合って、なんとなく二人だけの特別なコースが食べられるような高揚感の中で、彼女が運ばれてきたカナッペを写真を撮って友達のかなっぺに送信した頃にはすっかりと打ち解けあえていた。

 一口食べるごとにむふうんと漏らしながらとても上機嫌そうな彼女は、だけど急に思い出したように恭しい表情を作り直して、とても美味しいですね、なんて言って、僕はそれで笑って、そうですね、と返して、彼女もこらえきれなくなったみたいにつられて笑って、そんなふうに時間があっという間に過ぎて、ヴィアンドが終わってデザートを食べている時、彼女が「さっき言ってた安い飲み屋さんってこの近く? このあと行きたい」と突然言った。僕は冗談めかして「それは別料金?」と訊いて、彼女は「サービスに含まれておりますが、いかがいたしますか」と妙にかしこまった言い方でまた破顔する。

 店を出たあと、彼女はうーさむーと言って、ねぇお兄さんってほんとは制服に興味とかないんでしょ?  もういいよね?  お酒飲みたいからちょっと服買ってくる、と近くの服屋さんへとあっという間に入っていって、関係ないアクセサリーを手に取ってこれの色合いが可愛いとか似たようなのを持ってたけどなくしちゃったとか色々僕に教えてくれながら、そのあと何着かの服を選んで、結局、試着した中で僕が一番かわいいと言った薄いグレーのシャギーニットを買った。

「お待たせしましたっ。どうでしょうか」

「ばっちりです」

 それを聞いた彼女はるんるんとした様子で腕に抱きついて「これもサービスだよ」と僕の斜め下で笑って、それがあまりに可愛くて、僕はおそるおそる彼女を抱きしめた。僕は彼女を買う何人もの客の一人だし、それはそうだったのだけど、その時の僕はやっと結ばれた片思いの相手みたいに彼女のことを大切にしたいと思ったし、そう言うと彼女は、嬉しいかも、と照れた。

 いつも使う飲み屋さんに二人で入ってから、僕は「ところでどうして僕が別に制服フェチじゃないってわかったの?」と訊ねた。彼女は「だって私の制服姿を見た時になんにもかわいいとか言ってくれなかったし、しかもそれだけじゃなくて、一瞬、なんでこの人は制服を着てるんだろう、みたいな顔してたもん」と言って、ふつうそんなのあり得ないと僕の肩を不服そうに叩いて、僕は彼女の観察眼に驚きながらも誤解と不満を解消するための思いつく限りの言い訳を並べた。

  彼女は運ばれてきたお通しを興味深そうに眺めながら、またふうんとそれを聞き流して、「ごろごろもつ煮とビールがオススメだよ」と言う店長に「じゃあごろごろもつ煮とビール!  ビールは二つお願いします!」と僕の分のドリンクまで元気よく注文して、それだけで店長と店の常連客たちとついでに僕は一発で彼女のことが好きになったみたいで、それからはみんなが、どうしてこんな男に引っ掛かっちゃったのとか口々に質問して、彼女は「あたしの兄の知り合いだったんですよー」とか適当に話を合わせてくれて、この店はもつ煮だけは美味しいんだよな、なんて言う常連とそれに怒る店長を見てみんなではしゃいで、その隙に日奈香は「これにがーい」とビールを僕に押し付けてきて、自分は別にカルピスサワーを頼んで、それを見た店長も悪ノリして自分が飲んでたビールを僕に押し付けて「これにがーい」なんて言って、それでまたみんなで笑って、そんなふうに時間が過ぎていってようやく二人で落ち着いて話せるようになった頃、僕は忘れないうちにと彼女に小さな箱を渡した。

「はい、これプレゼント。もうすぐクリスマスだし、今日はすごく楽しかった。ありがとう」

  彼女は驚いた顔でそれを開け、中に入っていたネックレスを取り出した。

「え、これってさっきあたしが見てたネックレスだよ。いつの間に買ったの?」と目をぱちぱちさせながら言う彼女に、僕は「いい?」と尋ねて、彼女は嬉しそうに「お願いします」と言った。後ろにまわってその細い首にネックレスを付けてあげると、さっき買ったシャギーニットの上に、控えめに輝くそれがもうびっくりするくらい似合っていて、僕がそう言うと、彼女はありがとう、すごく、うれしいと一語一語確かめるように言って、自分のスマホのインカメラでそのネックレスを何度も何度も確認しながら、そのまま僕に肩にもたれて写真を撮った。

「どうでしょうか」

「ばっちりです」

 僕たちは笑ってそれからまた色々な話をした。彼女が動くたびに胸元のネックレスがちらちらと輝いて、そんなに高いものじゃなかったけど、その慎ましさがかえって彼女の優しくて少し幼い雰囲気にマッチしているようで、もう一度、ばっちりです、と言った。

 気がつくと彼女とあらかじめ約束していたデートの終了時刻はとうに過ぎて、あと三十分もすれば終電という時間になってようやく僕らは店を出た。店長はいつもより愛想多めに「またいつでも来てね」と言って、彼女はそれに元気よく「絶対に来ます」とこたえた。

  今日すっごく楽しかったーと何度も言いながらイルミネーションに彩られた街をちょこちょことした足取りで歩いていた彼女は「あのねあのね、終電までもう少しあるからあっちのイルミネーションの方を通って帰ろ」と僕の腕にまたしがみついてきた。

  デートだけの約束で買った、おそらく女子高生じゃない彼女。日奈香の降りそこねた雪みたいに白い肌と、大きくてくりっとした目と小さな口と耳、それらに最適化されたような薄化粧やまっすぐ肩へと延びた黒髪は、大人と呼ぶにはあまりにも澄んでいて、だけど子供と呼ぶには完成され過ぎていた。そして同時に僕にとってこの数時間は、彼女のことを知るのにはあまりにも短過ぎて、なかったことにしてしまうのには長過ぎるように感じた。

「実はこの仕事、今週末でやめるんだ」

  イルミネーションに囲まれた広場のようなところで、彼女は僕の複雑な思いを完全に汲み尽くしているみたいに唐突に切り出した。

「目標のお金もたまったし年が明けたら海外へ留学しようと思って」

 彼女がどんな表情でそれを話しているのかは分からなかったけど、きっと子供と大人の依羅の真ん中のような表情で嬉しそうに話しているはずで、だから、僕は大人らしく男らしく、おめでとう、とだけ言った。

  イルミネーションの無邪気さと十二月の無機質な寒さと喧騒の中で、彼女の存在だけがはっきりとしていて、声だけが輪郭を持ったみたいに僕へとまっすぐ届く。

「あたし一年経ったら日本に帰ってくるから、そしたらすぐに連絡するから、またカナッペとごろごろもつ煮食べに行こうね」

 こらえきれなくなって振り向いて見た彼女の横顔はやっぱり、思ったとおり、笑っちゃうくらいに綺麗で、湿っぽさや寂しさなんて少しもないかのように楽しげだった。僕は彼女を給料の何十分の一の値段で買って、彼女はそのお金で何百分の一か夢に近付いて、そうやって交差したほんの数時間の出会いで僕は少しだけ勘違いをした。

   彼女ともう一度会える日のことを今はうまく想像できないけれど、もう一度会えた時の彼女の顔はきっと少し大人びていて日焼けなんかもしているはずで、一緒に食べるカナッペとごろごろもつ煮は変わることなく相変わらず美味しいままのはずで、ひとまずは悪くない、と思う。

  「それは別料金?」と僕は言って、彼女はけらけらと笑いながら「サービスに含まれておりますが、いかがいたしますか」と答えた。

「またね」

  うん、またね。

「絶対に連絡するから忘れないでね」

  もちろん。じゃあね。

「また一年後に」

  胸元にあるネックレスはイルミネーションの光を反射させながら、いつまでもいつまでも光っていた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日も指名した。

勇気のカタチ

 僕がこうじ君からその手紙を受け取ったのは、ペナントレース真っ只中の八月のことだった。

「大すきな山本せん手へ

 ぼくはこんど、手じゅつをしなければなりません。しないと命がたすからないからです。だけどこわくって、一ど手じゅつの日ににげてしまいました。かんごふさんやおやにとてもおこられました。ぼくも本当は山本せん手みたいにかっこう良くてつよいやきゅうせん手になりたかったです。だけどだめでした。だからせめて大切な手じゅつからにげないような人になりたいです。そして、ちゃんとした大人になりたいです。毎日応えんしています。また手がみをおくります。 むら山こうじ」

 病気のせいか緊張のせいなのか、少し震えた文字で綴られた短い手紙を読んだとき、僕はこうじ君をどうにか勇気付けてあげたいと思った。こんなの結局はありふれた話なのかもしれない。もしかすると、僕のファンの中には手紙を送ることさえ出来ないでいる人たちもいるかもしれないし、何かすることで僕のことを偽善者だと笑う人が現れるかもしれない。だけど何の因果かこの手紙を読んだ以上、僕にとっては、そして夢を与える仕事であるプロ野球選手にとっては、しなければならないことがあるような気がした。

 次のオフの日、無理やり時間を作って手紙に書かれていた病院へと車を走らせた。受付で自分の名前を名乗り、むらやまこうじ君をお願いします、と言おうとした時、後ろから「え!! 山本せん手!?」という大きな声が聞こえてきた。

 ばたばたと駆け寄ってくるこうじ君に、近くにいた厳格そうな看護師が、院内を走らないでください、とたしなめながらも、それでもこうじ君はそんな声など少しも聞こえない様子で嬉しそうに「ぼ、ぼく! むらやまです! むらやまこうじです!」と言った。

 呆れたような、諦めたような表情の看護師や医療事務の人たちに頭を下げながら、とりあえず場所を移そうか、と提案する。

 「こっちにイスがある! こっちこっち!」

 こうじ君に腕を引っ張られるままに着いて行くと、自動販売機といくつかのイスだけがある簡易の休憩所に到着した。

「どうして山本せん手がこんなところにいるの!? からだこわしちゃったの!?」

 休憩所に着くや否や、矢継ぎ早に質問をしてくるこうじ君に少し苦笑いを浮かべながらも、話の本題に入る。

「こうじ君が書いてくれた手紙を読んで来たんだよ。手術が怖いんだって?」

「う、うん」

 こうじ君の声のトーンが少し下がる。どうやらまだ手術をする決心はついていないらしい。

「怖いのかい?」

「うん。しっぱいしたらしんじゃうかもって」

「でも手術をしないと助からないんだよ?」

「だけど……山本せん手はこわくないの?」

「試合が、かい?」

「うん。三しんしたらチームが負けちゃうときとか」

「そりゃ僕だって怖いさ。いつも怖いんだよ。だけど力一杯振ることにしているんだ」

「どうして?」

「振らなかったら三振になっちゃうからね」

 こうじ君は目からウロコが落ちたみたいに目をぱちぱちとしながら、ふらなかったら三しんになる、ふらなかったら三しんになる、と何度か繰り返して、やがてけらけらと身体をくの字に折って笑い始めた。この時だけは、こうじ君がなんの変哲もないただの少年のように見えた。

「そうだよね。ふらなくてもけっきょく三しんなら、ふらないとそんだよね。そん」

「そうだよ。少しは勇気が出たかい?」

「うん! でもやっぱり……」

「それじゃあこうしよう。明日僕は思いっきりバットを振ってホームランを打つ。そしたらこうじ君も手術を頑張る。どうだい?」

「うん! わかった! それならぼく、がんばる!」

 先ほどまでの不安なんてまるで嘘だったみたいに目をキラキラさせるこうじ君はそれからしばらく他愛のない話をした後、やって来た看護師に連れられて診察室へと戻って行った。その道中、何度も僕の方を振り返ってはぶんぶんと音がなりそうなくらい手を振りながら。

 病院からの帰り道、ずっとこうじ君のことを考えていた。まるで病気なんて患ってないような、一人の純粋な野球少年の目をしていた。あの頃プロ野球選手を夢見ていた小学生の僕と、まるで同じ目だった。それが嬉しくて、同時に悲しかった。

 こうじ君だって本当は怖いはずなのに、あんなにも目をキラキラとさせて明るく振る舞い、そして夢を諦めながらも、なんとか自分を奮い立たせて手術に挑もうと決意した。僕はこれまで情熱を持って野球を続けてきたし、模範的ではないにせよ、チームとファンのことを一番に考えて正しい選手であろうと努力してきたつもりだ。それでもこうじ君のような強さが自分にあるのかと自問すると、答えられなかった。

「勇気付けるつもりが逆に教えられてしまったな……」

 自嘲気味にそう呟くと、思考を切り替えるように明日の試合でなんとしてもホームランを打つと固く決意した。

 翌日の試合は長く膠着状態が続いた。一回の表に相手チームが一点を取り、二回の裏にうちのチームがその一点を取り返したあとは、お互い一歩も譲らない展開が続いてついに一対一の同点で九回裏を迎えた。

 二死、走者なし。

 まるで用意されたようなシチュエーションで僕に打順が回ってきた。今日の成績はこれまで三打席無安打。ゆっくりとバッターボックスへと入り、遠くにあるスタンドを確認する。こんなにも晴れ晴れと、そして高揚している自分は随分と久し振りだった。あるいは初めてプロの打席に立った時以来かもしれない。

 柄にもなくバットをスタンドに向けて真っ直ぐ掲げる。それに応えるように、観客からはバットが震えるくらいの歓声が返ってきて、その時初めてバットが震えているのは歓声ではなく、自分の身体が原因なんだと気が付いた。それが武者震いなのか恐怖なのかは分からない。だけど僕は悪くないと思った。

 しっかりとバットを握り直して、ピッチャーに集中する。こうじ君。僕だって本当は逃げ出したいくらい怖いんだ。だけど、そんな時ほど力強くバットを振ることにしている。だって――

 「ヒーローインタビューです。お待たせいたしました。本日は、見事ホームラン宣言後にサヨナラ本塁打を放った山本選手にお越しいただいております!」

 割れんばかりの歓声が轟く中、お立ち台でファンとカメラの向こうに居るであろうこうじ君に向かって手を振る。

「最後の打席、普段の山本選手からは想像もできないようなホームラン宣言の後、見事ホームランを打ちました。あれにはどういった意味があったのでしょうか?」

「実は今日の試合は僕の大切なファンとの約束がありました。そのファンはこうじ君といって、近々大変難しい手術に挑む予定です。そんなファンの一人一人に、少しでも勇気を与えられたら、という一心でバットを振りました」

「そうでしたか。それではそのこうじ君に何か一言かけてあげてください」

 すうっと静かに深呼吸する。こうじ君。僕だって本当は逃げ出したいくらい怖いんだ。だけど、そんな時ほど力強くバットを振ることにしている。だって――

「怖くてもバットを振らなきゃ三振になるぞ!!!! 絶対に負けるな!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

登場人物紹介

山本選手(32)プロ野球選手

村山浩司(58)外科医

春の樹からの使者

※今回の記事は、知り合いの某有名作家から身元を明かさないことを条件に寄稿されたものです。

 

 ハンブルグ空港でサンクトペテルブルク行きのボーイング747を待っていると、突然自分がひどく空腹だったことを思い出した。近くにあった適当なカフェテラスへ入って、レタスとハムが几帳面に挟まれた新鮮なサンドイッチを注文すると――世の中にある全ての新鮮なサンドイッチがそうであるように――それは、僕の中の空腹と孤独とを一滴一滴しぼりとる脱水機のように作用した。

 手頃な席に座り長い間触っていなかったパソコンを起動してみると、たくさんの自分宛のメールの中から一人の友人の名前を見つけた。

「突然で申し訳ないんだけど、君に頼みがあるんだ。僕には今悩みがあって、そのことについて僕なりに長い時間を掛けて考えていたんだけど、どうやら君にしか解決できないものらしい。根拠を説明しろと言われても、同じだけの時間をかけたとしても僕にはその半分の理由すらも説明できないのだけれど。とにかく僕は今ひどく混乱していて君の助けが必要みたいなんだ。

 どうか何も訊かずに僕の代わりにブログを書いてくれないだろうか。もちろん選択肢は君にあって、これを断ることも断らないこともできる。だけど君は、いずれにせよ決断をしなければならない。こんなことを君に強いることになってしまったのは本当に心苦しいんだ。だってそうだろう? 友人を悩ませることは僕にとって、少なくとも楽しいことではないのだから。

 とにかく君からの返事が届くまではもうしばらく一人で頑張ってみるつもりだ。君がいなくても更新さえすれば本質的にはブログは続いていくし、それは完璧な形ではないにせよ、僕の望むことだからね」 

 メールを読んでいる途中、気取ったフランス料理店の支配人がアメリカン・エクスプレスのカードを受け取るときのような顔つきをしたウエイトレスがサンドイッチを運んでくれて、僕はメールを読み終えたあとにもう一度頭から読み返して――その結果サンドイッチからはいささかの新鮮さが永遠に失われた――サンドイッチにかぶりつきながら、やれやれ、と呟いた。

 とにかく、そのようにして僕のブログをめぐる冒険が始まった。選択肢は僕の手元に、まるで初めから水槽の中に存在している砂利のようにあって、そして僕は決断した。いずれにしてもそうしなければならなかったのだ。サンドイッチを食べ終えてもう一度メールを読み直した後、なんとなく僕はすぐにそれを書かなければならないような気になったし、あるいはそんな気にはなっていなかったのかもしれない。そんなことよりもはるかに重要だったのは、悪い予感というものは良い予感よりもずっと高い確率で当たるということを僕は知っていて、書かないという選択が僕にとって何か悪いことを象徴するメタファーのように感じたということだった。いずれにせよこの続きは僕が無事にサンクトペテルブルクに到着して、そこでとびっきり熱いコーヒーを飲んだ後にもその予感が続いているのなら書くべきなのだろう。

 正直に言って僕は今ひどく疲れているし、昨日から今日にかけて起こった出来事をここに書くべきなのかどうか今も分からない。君からのメールを受け取ったことがこの奇妙な出来事の原因だったのだとしたら、あるいは僕はこんなメールを受け取るべきではなかったのかもしれない。そして、残念なことに悪い予感はずっと続いていて、それどころか今となっては確信に近いものになっている。もし君の言う通り、この奇妙なできごともこのブログと同じように本質的には続くものなら、なおさら僕は正直に語らねばならない。品のいいアードベッグ・スコッチを飲みながら、やれやれ、と僕は呟いた。

  飛行機に乗り込んだ後、僕は機内のオーディオプログラムの中でローリング・ストーンズの特集をしている番組を聴きながら、キャビンアテンダントから品のいい動物の清潔な内臓のひだのようなブランケットを受け取った。コンクリートを力いっぱい引っ張ったような雨雲を抜けた頃、僕はローリング・ストーンズを聴きながら少しぼんやりとした気分になっていた。そうやってしばらく退屈で骨の折れるような時間を過ごし、眠るために備え付けのテーブルを戻そうかと考え始めた頃、突然横から肩を叩かれた。

「あなたって本当に自分以外には鉄板みたいに興味がないのね」と彼女は言って、僕を見ながらしかめた顔をした。

 僕はとっさに返事ができなかった。彼女がここにいる意味を真剣に考えてみようと思ったけど、結局諦めて「どうして君がここにいるんだい?」と言った。

「あら、あなたと同じよ。ハンブルグ空港でサンクトペテルブルク行きの飛行機に乗ったの」

「つまり君は今までハンブルグに居たってわけ?」

「私もこの座席に座った時、今のあなたと同じことを思っていたのよ」と彼女は言った。「数十分も前のことだけど。ねえ本当に私だって気付かなかったわけ?」

「考えてもみなかった」

「あらそう。ねえ私が今何を考えているかわかる?」

「見当もつかない」と僕は言った。「でもお願いだから、もう少し声のトーンを落としてくれないか? ここは飛行機の中で、僕達の他には誰もこんな風に話してないんだから」

「あのね隣に座った時、私は一目であなただって分かったわ。でもあなたは変なブランケットを受け取った後、すぐにヘッドホンで音楽を聴き始めて雨雲の中でもちっとも目を開けなかったでしょ。あの時あんなにも揺れたにも関わらず。私とっても不安だったの」

「ふむ」

「よっぽどあなたに話し掛けて手を握ってもらおうと思ったくらいに。本当よ。だけどそんな私になんかちっとも気付かないで、あなたはテーブルをあげて寝ようとしたじゃない?」彼女は小声で言った。「あんまりに腹が立っちゃったから思わず話しかけちゃった」

「それは本当にすまなかった。つまり僕は少し疲れていて」

「あら許してあげるわよ。その代わり少し付き合ってちょうだい」

 やれやれ、と頭を抱える僕のことなんか気にせずに、彼女はキャビンアテンダントに頼んだウィスキー・コークを二杯立て続けに飲んで、それからシャンベルタンを頼んだ。

「何か話をしてよ」

「どんな話がいいわけ?」

「ねえ突然だけど今から私のことを考えながらマスターベーションをしてくれない? それでどうだったか聞かせて欲しいの。そういうのってすごく楽しいと思わない?」

「思わないね」

「そうかしら? でもとにかく私はそう思うのよ。男の子っていつもどんなことを考えながらするわけ?」

「少なくともこうやって誰かにお願いされて飛行機の中でするものではないだろうね」

「あら、でもそれってとても素敵だわ。狭い部屋で自分一人でするのなんて退屈で惨めじゃない」

「あるいはね」と僕は言った。「だけどマスターベーションは本質的に退屈で惨めなものなんだよ」

 彼女は真剣な顔でそのことについて考えているようだったが、しばらくした後に「ねえ本当にしない?」と言った。

「こんなことで捕まりたくないんだ」

「あらばれないわよ。そのためにブランケットがあるんじゃない」

「君は今日少しおかしいよ。酔っているしこんなところで知り合いと再会したから、つまり、少し興奮しているんだ」

「お願いだからこんなことで私を嫌いにならないでね。それって涙が出ちゃうくらいつまらないことだから。でも違うの。欲求不満だとか挑発的になってるだとかじゃないの。本当に。だけど私ってずっと女子校だったでしょう? 海外を飛び回ってると恋人もできないし。あなただってそうでしょう?」

「わかる気がする」

「だからずっと気になっていたのだけど、誰にも訊けなかったの。だってこんなことをまさか上司やお父さんに言えないでしょう? そんな時、あなたがこうやって私の隣に座っていたの。これって奇跡だと思わない?」

「そうかもしれない」

「あなたがしてくれないなら私、今から大声で泣き始めて他の乗客一人一人にあなたに言ったことと同じことを言うわよ」

「勘弁してくれよ」と僕は言った。

 サンクトペテルブルクは雪が激しく降り、殆ど前も見えないくらいだった。街全体が冷凍された死体のように絶望的に固く凍りついていた。 僕たちはどちらから誘うでもなくホテルへ入った。この街ではそうするのが正しいのだと僕は思ったし、彼女もそう思ったようだった。僕たちはそのことに少しの疑問も持たなかったし、閉園後の動物園で、飼育員に誘導されながら飼育小屋に戻る動物たちみたいに当然のことだった。

「ねえ今から私たちはあれをするわけでしょう?」と彼女が言った。「私うまく出来るか心配なの」

「ふむ」

「あなたのことが嫌いなわけじゃないのよ。私の個人的な問題なの。つまり風のある日に煙がまっすぐ立ちのぼらないみたいに、私にとってはそれがごく自然なことなの。私の言ってることってわかる?」

「わかるよ」

「そう。それじゃあキスをしましょうか」と彼女が言った。僕たちは二つのスプーンを重ねたみたいに、あるいはお互いがお互いの水分を吸収しようとくっついたスポンジみたいに、そうすることがごく自然なものとして存在した。

「ねえやっぱりダメみたい。私こんなにも熱くなってるのにちっとも濡れないのよ。私のこと嫌いになった?」

「まさか。そりゃ少し残念ではあるけれど」

「あなたってたまにすごく正直よね。でも私あなたのそういうところって好きよ」

「そりゃどうも」

「ねえ私のことは好き?」

「好きだよ」

「どれくらい好き?」

「世界中のリスが木の実を隠すために穴へと戻ってしまうくらい好きだ」

「それって凄く素敵ね。私今すごく嬉しいのよ。あなたのことをたくさん訊かせて欲しいの。ブログってしてる?」

「していると言えばしているし、していないと言えばしていない」と僕は言った。「ふうん」と彼女は言って、それから、何か話したくないことがあるのね? と言いながら僕のペニスを優しく握った。

「正直に言うと話したくないね。つまり複雑に事情が込み入っていて、うまく説明できる自信がないんだ」

「そんな事情があってもブログは続くものなの?」

「本質的にはね」

「ねえ私が今何を考えてるかわかる?」

「さっぱり見当もつかないよ」

「あなたに射精して欲しいの。そう思わない?」

「僕も思うよ」

「本質的に?」

「そう、本質的に」と僕は言って、そして何の予兆もなく突然射精した。それは押しとどめようのない激しい射精だった。

「このこともブログに書くわけ?」と彼女は、冷蔵庫から取り出した青いバルチカの缶を開けながら言った。

「書くかもしれないし書かないかもしれない。いずれにしても僕はブログに対してあまりにも多くのことを知らないんだ。同時に君自身に対しても」

「あなたは今ひどく混乱していて、あまりにも疲れているのよ。きっと朝起きたらあなたはパソコンを起動して今日のことをブログに書くわ。私にはそういうことって全部わかるの。そして、私はそれを楽しみにしていて、私のことをあなたがどうやって書くのかってことにすごく興味があるの。本当よ。だからちゃんと前向きに考えてちょうだい?」

「努力はするよ」

「それじゃあおやすみ」と彼女はにっこりと笑って言った。

 次の日の朝、彼女は忽然と跡形もなく居なくなっていた。だけど僕はこれといって動揺はしなかったし、そのことについて心を激しく痛めるようなこともなかった。彼女は消えるべき存在だったのだ。あるいは彼女は消えてこそ、本来的な価値を得るものだったのだ。僕はそれをごく自然に理解していたし、そして同時に、彼女が永遠に僕の前に戻ってこないであろうこともとてもよく理解していた。

 何度か彼女に電話をコールしても、病院の霊安室みたいなわかりやすい静けさが続くだけで、僕は結局、クリスマスの朝に子供がプレゼントを見つけたあとの空っぽの靴下のような部屋で一人ストレッチをすることに決めた。入念に一つ一つの筋肉をほぐした後、シャワーを浴びて汗を流すとパソコンを起動した。

 僕はたしかに決断をしたし、そして決断にはある種の責任が発生する。そう考えると、今すぐにでも書かなければならない気になった。深い井戸の中にいる僕の背中を、よく目を凝らさないと見えない武士が何度も何度も斬りつけてくるみたいに、自分の身に起きたことをできるだけ正直に語らなければないと思った。

 僕にはそれ以上うまく説明できないのだけど、いずれにしても僕がどう感じたとか、何を選んだとかに関わらず物語は進んでいくものだ。僕の手から物語が離れようとも、あるいは物語が僕抜きでも本質的に続くものだとしても、僕は決断をしたし、またそうしなければならなかった。やれやれ、と肩をすぼめてみせる。知らない間に美女が蓄えた脂肪みたいな雪が降る中、僕の部屋のラジオからはローリング・ストーンズの『ブラウン・シュガー』がまた流れていた。

 

 

 

 

 

ここまで書いておいてなんですけど、全部嘘です。

三月三日のセレナーデ

「あなたがこの手紙を読む頃には外はもうすっかり春になっている頃だと思います。去年二人で行ったあの桜並木もそろそろ満開でしょうか。どうですか? 当たっていますか? 一緒に見に行く約束は守れたのかなあ。今こっちはまだ寒くって、だけど病室に射し込む光には少しずつ春らしさみたいなものが感じられるようになってきました。今日は三月三日。えへへ。そうです。自分の誕生日にこうして、私はあなたへ最後の言葉を書き綴っています。

 元気にしていますか。たぶんあなたの事だから、毎日私のことで悲しみに暮れているんだと思います。そんなあなたを想像すると、申し訳ないような嬉しいような、なんだかとても不思議な気持ちになります。どうして突然こんな手紙を書こうと思い立ったのかというと、ちゃんとこれまでの感謝の気持ちを伝えたくなったのと、せっかくの私の誕生日なのに、病室へ戻るとあなたが眠っていたせいで暇になっちゃったからです。えへへ、でも今回だけは許してあげます。ずいぶんと疲れているみたいだったから。忙しい仕事の合間を縫って時間を作ってくれたんだよね。わざわざ誕生日を祝ってくれて本当にありがとう。今日は私にとって、今まで生きてきた中で一番幸せな日になりました。

 実はさっき、余命を宣告されちゃいました。私に残された時間はあと一ヶ月だそうです。本当にごめんなさい。せっかくこんな素敵な誕生日プレゼントまで用意してくれたのに。約束できなくてごめんなさい。断ってしまってごめんなさい。でも本当は、とっても嬉しかったんです。いつ死んでも悔いなんかないってずっと思ってたのに、指輪なんか貰ったら少しだけ欲が出ちゃいそうです。できることならもう少しだけ二人で悩んだり、喧嘩したり、仲直りしたり、遊びに行ったり、笑い合っていたかったです。あなたに頭をぽんぽんされたり、手を握られたり、抱き締められたり。そんな風にもっとあなたと一緒に過ごしてたかった。だけど私の心は今不思議なくらい穏やかで、自分が死ぬことに対して後悔や不安なんかはありません。むしろ病気になっちゃって感謝できたことだってあるんです。たとえば、こうやってあなたの寝息を聞いているだけで、生きてるってことは奇跡なんだと、改めてそんな風に思えるようになりました。

 まだあなたが起きないので少し昔話をしようと思います。あなたはいつも楽しそうに笑っていて、だけど感動したりなんかすると意外と涙もろいところなんかもあって、とにかく優しくて明るい人でした。思い返せば私たちはよく周りから似てないと言われてきたね。でも実は、それと同じくらい似ているところも多かったんだよね。私は家の中にいて本を読んだりすることが好きだったけれど、あなたは外に出て映画を観ることが好きでした。私はコーヒーが好きで、あなたはコーヒーが飲めなかったけれど、私が淹れるコーヒーを美味しいと言ってくれて、付き合う前なんかはそれを飲みながら借りてきた映画をよく二人で観ました。あなたと観る映画はなぜかいつもつまらなくって、でもあなたが泣いたり笑ったりしているのが面白かったから、私はあの時間が実は結構好きでした。

 あなたから告白された日、大学の食堂でいきなりあなたが、好きです、付き合ってくださいと言ってくれた時、ムードとかないのって思わず笑っちゃったけど、あの日が私にとってこれまでで一番幸せな日でした。ふふ。今日のあなたのプロポーズとちっとも変わらないなあ。学食から教室へ戻る間、あなたは私の手を繋いできて、通りかかる人通りかかる人に、俺ら付き合うことになったの、と嬉しそうに言っていて、本当に恥ずかしくて顔から火が出そうでした。

 怒った時、いつも仲直りのきっかけを作ってくれて、私を素直にさせてくれたのはあなたでした。落ち込んだ時、いつも真っ先に駆けつけてくれて、さり気なく励ましてくれたのもあなたでした。嬉しかった時、いつも私の隣にいてくれて、それを与えてくれたのがあなたでした。口下手な私は今までついに言えなかったけど、あなたのことを愛していました。こうやって今、隣で眠っているあなたの横顔を眺めていると、自然と笑みが溢れてしまうくらいに大好きでした。

 一昨年、一緒に水族館へ行ったときのことを覚えていますか。イルカショーが始まった途端にあなたは大はしゃぎで人混みの中に飛び込んでいって、結局はぐれちゃって一緒に観れなかったよね。それで怒った私にあなたはすごくうろたえながら、ちょっと待ってて、とまた私のことを一人にして、何をしに行ったのかと思っていると、二十分くらいして大きいイルカのぬいぐるみを抱き締めて嬉しそうに戻ってきたよね。それを見た途端、怒ってるのが馬鹿らしくなっちゃって、思わずあきれて笑っちゃいました。あの時、私がイルカショーを観れなくて怒っているとでも思ったんですか? その後、もう良いからと言う私を無理やり二回目のイルカショーに連れて行ってくれました。大の大人が自分より大きなイルカのぬいぐるみを抱えながらイルカショーを観ていたもんだから、周りからの視線でイルカショーどころじゃなかったんだよ。でも実は、ちゃんとあなたとイルカショーを観れてちょっぴり嬉しかったり。

 こんなことを書いてるとどんどん思い出が溢れ出てきちゃいますね。お別れするのが悲しくなっちゃいます。だけど、あなたがこれを読んでいる頃には私はもう居ません。本当にごめんね。最後まであなたを困らせてばかりでした。だけど困らせついでに、もう一つだけお願いがあります。今はそうやって悲しみに暮れているあなたにも、いつか心から愛したいと思える人と巡り合う日がくると思います。その時はどうか、ためらうことなくあなたの愛をあげてください。あなたは真っ直ぐな人だから、その不器用さが心配です。どうか私の抜け殻に埋もれないでください。私にくれたあなたのその甘やかなぬくもりで、いずれできるあなたの大切な人を包んであげてください。

 私はもう、あなたから充分なほどの愛をもらいました。病気になって痩せた指にもピッタリな指輪ももらいました。えへへ。実はあなたがずっと眠っているから、我慢できなくて少しだけつけちゃいました。可愛いなあ。ちゃんと私に似合ってるのかな? あなたと出会えて、私は世界一の幸せ者だったよ。だからあなたも私のことはどうか忘れて幸せになってね。そしていずれできる大切な人のこともちゃんと幸せにしてあげてください。あっ、せっかくなので、やっぱりもう一つだけわがままを言っても良いですか? そうやって他の誰かと幸せになっても、一年に一度の私の誕生日くらいはそっと思い出してください。それだけが私のささやかな願いです。

 ずいぶんと長くなってしまいました。あなたは相変わらず全然起きる気配がないので、そろそろ叩き起こしちゃおうと思います。いい加減寂しくなってきました。その時、私は少し怒ったような顔をしてると思うけど、今度はもうイルカのぬいぐるみはいらないからね。

 ここに書き切れなかったことはまだまだありますが、それでも私のすべてを込めて書きました。もしまたいつかどこかで出会うことができたら、この手紙を読んだ感想を聞かせてください。今まで本当にありがとう。どうか元気で。いつもあなたを見守っています。 日奈香より」

  今思えばその日は世間一般的にはなんでもないただの土曜日で、けれど僕の彼女の誕生日で、僕がプロポーズしようと決めていた日だった。給料三ヶ月分とは言わないけど、病気になってずいぶんと痩せ細った彼女の指にも綺麗に映えるよう、新卒二年目にしては頑張って小さなダイヤのついた指輪に決めた。ポーカーフェイスなひなのことだから、きっと涙を流して喜んでくれるなんてことはないだろうけど、いつもみたいに澄ました笑顔くらいは見せてくれるだろう。そう思うと早くひなに渡したかった。

 ひなが倒れたのは去年の初夏だった。彼女の両親から突然何の前触れもなく連絡がきて、彼女が病院に搬送されたこと、すぐに駆けつけてやって欲しいということを伝えられた。急性骨髄性白血病。それが彼女の病名だった。ついこの間まで楽しそうに花見をしていた彼女は少し息切れしたりはしていたけれど、いつもみたいに楽しそうに笑っていて、そんな風には全然見えなくって、僕が病室に飛び込んだ時もいつもと変わらない顔で、来年の花見までにはちゃんと治すねーと笑ってくれたほどだった。ゆっくり休んで早く元気になってね、とぼくは言って、彼女は、はーいと明るく言った。

 それから一ヶ月経って、半年が経って、その間に彼女はどんどんと痩せていった。ただでさえ小さな肩と胸が一段と小さくなって、そんなことを言うと彼女は「むっ」と言って、僕は彼女のほっぺたを横に伸ばして笑った。でもその時にはもう彼女のほっぺたはあまり伸びなくなっていて、それで途端に怖くなってしまって、彼女の身体が壊れてしまわないくらい強く抱き締めてみたりして。そんな時、いつも彼女は、どしたの、と優しく僕の頭を撫でてくれた。そして決まって、大丈夫だよすぐに良くなるから、と言った。

 年が明けてすぐ、彼女の両親から呼び出された。彼女の容態があまり芳しくないこと、抗がん剤がうまく効かないこと、近いうちにもしかするかもしれないということ。そして娘のことはもう忘れて、自分のしたいことをしてくれても良いということ。僕はただ、日奈香さんを近くで支えることが自分のしたいことです、必ず彼女は良くなります、と言って、彼女の両親からは、ありがとう最後までそばにいてやって欲しいと涙ながらに言われて、その時現実感を持った死というものの温度に触れてしまったような気持ちになって、彼女が倒れてから初めて泣いた。

 病院からの帰り道、彼女の誕生日にプロポーズしようと決め、それから二ヶ月間がむしゃらに働き続けた。週に二回、彼女の病院へ行く以外の時間は全て仕事にあてた。その間にも彼女はどんどんと痩せ細っていって、僕は不安になる度に彼女を抱き締めたり、さりげなく彼女の匂いをかいだりして、どうしようもなくなった時はあからさまに胸一杯に吸い込んだ。病院特有の匂いに混ざって、甘い彼女の匂いがした。どしたの、と彼女が僕の髪を撫でて、大丈夫だよすぐに良くなるから、と僕が言う。

 誕生日当日、その日は午後から診察があったので、僕は面会時間が始まるとすぐに彼女の病室へと行き、誕生日おめでとう、と言いながらドアを開けた。中にいた看護婦はくすくすと笑いながら席を外してくれて、彼女は恥ずかしそうに、その節はどうもありがとうございます、と妙に改まって笑いながら言った。

 今日はひなに大切なお話があります。

 こほんと僕が咳払いをして、彼女はそんな僕をおかしそうに見つめながら、はい、大切なお話をしてください、と冗談めかした。

 好きです、結婚してください。

 そう言うと僕は鞄から小さな指輪の包みを取り出した。彼女は固まったようにその箱と僕とを交互に見続けて、震える手で布団を掛け直した。しばらく黙っていた彼女はどうしてと言いたげな目をしながら、今は約束できません、ごめんなさい、と同じくらい震えた声で言った。それは病気が理由ですか、と僕が尋ねると、彼女はそれには答えず、その箱を開けてみてもいい? と言って、まるでロボットが人間の子どもを抱きかかえるみたいにぎこちない動きでティファニーブルーの小さな箱を開けた。

「どうしよう、すっごく嬉しいなあ」

 彼女は独り言のようにそう呟くと、しばらくの間ずっとその指輪を眺めていて、ようやく決心したように箱を閉じた。

「病気が治るまで、この指輪は私が預かっておきます」

 そう言った彼女の顔には満面の笑みが浮かべられていて、僕はそんな彼女の笑顔を初めて見た。その笑顔は今まで見た彼女の中でもとびっきり可愛くて、病気だってことなんか一発で忘れちゃうくらいの破壊力があって、僕には二度と必要のない不安や悲しさなんかをほんの一瞬で奪い去っていった。

 彼女はその後もずっとその箱をむにむに触ったり丁寧にリボンをかけ直したり、プロポーズを断った人とは思えないくらい嬉しそうにしていて、僕はそんな彼女の頭をさららと撫でながら、お医者さんからダメだと言われていたキスをした。ほんの触れるくらいのキスだったけど、久し振りの彼女の唇はびっくりするくらい柔らかくて暖かくて、ちゃんと彼女はそういった彼女らしさを失わずに生きていて、それは同時にあまりにも残酷だった。

 検査のために彼女が呼ばれて、一時間くらいかかるからどっかでご飯でも食べてきて、と彼女は今にもスキップでもしそうな足取りで病室を出て行った。ふと窓の外を見ると、まだ蕾をつけただけの桜の木が見下ろせた。

  彼女が元気になって、もう一度手を繋ぎながら去年と同じ桜並木の下を歩きたいな、なんてことをふと考える。去年と同じ川沿いの道を、でも去年とは違って彼女の左手の薬指には小さな指輪があって、僕は一人でそんなことを考え続ける。不安にならないように。言い聞かせる。きっと大丈夫。

  彼女はあんなにも彼女らしいままで、空っぽのベッドには元気な頃と同じ彼女の体温が残されていて、唇の柔らかさは元気な頃と少しも変わらなくって。病気は彼女から、何一つ彼女らしさを損なわせることが出来ていないかのようだった。

 彼女の居ない病室には、だけど彼女の気配がこんなにも強く残っていて、けれど、けれど彼女の命はたしかに儚く小さくなっていて、唇に残った感触だけが唯一、僕が確信をもてる彼女が存在する根拠みたいで、僕はそのことに強く心を痛めたけど、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おちんちんの方がもっと痛かった。(病室でヌいてそのまま寝た)

金木犀は仄かに香って

 夏がもうまもなく終わろうとしている九月の夜、ひどく蒸し暑く小雨が降る中、クーラーが壊れたから涼ませてよ、とお酒と花火を持ったひなが僕の部屋へとやってきた。

 彼女はクーラーの真下に座り扇風機の首振りを自分のところで止めて、持ってきた缶チューハイを開けながら生ーき返るーと気持ち良さそうに目を細めた。缶チューハイを貰って呆れながら彼女の近くに座ると、彼女は他愛のない話を延々と話し始めて、それはしばらくすると彼氏の愚痴に変わって、最近職場の女と仲良さそうに連絡をとってるだの、ご飯を作っても美味しいと言ってくれなくなっただの、しかも食べ終わった自分の食器すら持ってきてくれないだのと、ほんの些細な悪口をひとしきり並べる彼女に対して、僕はいつものように適当に頷いたり、笑ったり、そんな話を振った男に話すかよふつー、なんて毒づいて茶化したりした。

 彼女の汗がすっかりひいて彼氏への愚痴も一通り言い終えた頃、でもね、と今まで並べ立てた悪口のひとつひとつに対して、丁寧に彼氏は私と違って社会人で忙しいからと彼女なりの理解を自分と僕に言い聞かせるように付け加えた。

 ほんと、そんな話を振った男に話すかよふつー。

 僕が同じサークルの日奈香のことを好きになったのは去年の秋だった。サークルの集まりが終わったあと、たまたま帰りが一緒になったひなと今から紅葉でも観に行こっかという話になって、京都駅から出ていた嵐山行きのバスにそのまま二人で飛び乗った。

 彼女はその間、嵐山の紅葉スポットをスマホで真剣な顔で調べながら、ふと顔を上げてはバスの外を流れる色付いた木を見つけて、ほら見て見て紅葉、と嬉しそうに教えてくれて、僕がどうせ今からいっぱい見れるじゃんと笑うと、不服そうな顔でまたスマホに顔を戻して、そんなことを繰り返す彼女がなんだかおかしくって、僕はまた笑って、なにがおかしいの、と彼女は肩をぶつけてくる。

 バスを降りて少し歩いた先にある渡月橋を渡ると、辺りはうんざりしちゃうほどの赤と黄と緑に包まれていて、その下をたくさんの人たちが嬉しそうに歩いていた。紅葉スポットを調べていたはずの彼女は、そんなことはとっくに忘れている様子でスマホを鞄の中に仕舞い込んでいて、どうやらこのまま人混みの流れに身を任せることに決めたようだった。

 途中、品の良さそうな喫茶店を見つけて、テラス席のベンチに隣り合って座り、二人で熱いコーヒーを飲んだ。コーヒーの湯気が彼女の白い肌と真っ黒でまっすぐに切りそろえられた前髪にかかり、そして消えるのを見ながら、僕は「あまり紅葉とかは見えないけどここ落ち着くね」と言って、彼女はうんうんと頷きながら「あれ、少し金木犀の香りがする」と言い、あっあそこほらっ、と近くの大きな木を指差した。そこには終わりかけの小さないくつもの花が控えめに咲いていて、言われるまで気付かなかったけど、たしかに風が吹くとゆったりと金木犀が香ってきた。

「ひなって金木犀とかそんなの知ってるんだ」

 そんなのみんな知ってるもんじゃないの? なになにどした?

 彼女は僕が言ったことに不思議そうに笑いながらコーヒーを飲み干して、僕も遅れてそれに続いた。冷えていた身体はすっかり温まって、それは僕の隣にいる彼女から伝わるぬくもりの中にも感じられて、なんだか僕の中に確かなものとして彼女が存在しているような気にもなった。

 二人で人混みの中に戻ってまたしばらく歩いていると、だんだんと色付いた木々も少なくなっていって、最後には嵐山らしさにうまく溶け込んでいるような店が何軒も並んでいる通りに辿り着いた。そんな店を一軒一軒ゆっくりと眺めながら歩いている時にふと思い付いて、僕は彼女を誘って練り香水を置いている店へと入った。

 えーキャラじゃないし香水とか似合わないし良いよ、とか言いながら珍しく照れてる様子の彼女をいいからいいからとなんとかなだめて、結局、彼女さんにほんとピッタリの香りだと思いますよ、という世話好きそうなおばちゃん店員の後押しが決め手となって、じゃあ使ってみる、と恥ずかしそうにする彼女に一つの練り香水をプレゼントした。

 その日を境に彼女と過ごす時間はどんどんと増えていって、同時に金木犀の香りをふわりとまとった彼女に僕は惹かれていった。いつしか二人であの日に見た紅葉や隣り合って飲んだコーヒーといったものを思い出そうとしても、風景が風景であることを諦めたように僕の顔を見ながら笑っている彼女の顔と微かな金木犀の香りしか思い出せなくなっていった。

 それからしばらくして、冬が秋を追い越した頃、僕はひなに告白して、そして呆気なく振られた。あーごめん、私、彼氏居るんだ。言ってなかったっけ? と申し訳なさそうに言う彼女に、そんなの聞いてないよと思わず笑っちゃって、彼女らしい振り文句のせいで僕はひなのことを余計に好きになっちゃって、彼女も彼女で僕のことを振った後も二人の関係が変わらなかったからか、僕に対する妙な信頼感みたいなものが芽生えたようだった。

 僕たちはそれから、以前よりずっとずっと親密になったし、たくさんの話をするようになって、遊んだり飲んだりした夜、たまに彼女がそのまま僕の家に泊まっていくこともあった。ただ、僕が告白をした日以来、彼女から金木犀の香りはしなくなった。ある日それとなく理由を訊いてみると、振られた時と同じようにあっけからんと、だってもう金木犀の季節じゃないじゃん、と彼女は笑った。

 ねえ、ちゃんと聞いてる? 雨で服が濡れてて寒いからなんか上から羽織れる服貸してってー。

 自分の家みたいにくつろいでる彼女に心底呆れながらシャツを投げてやると、彼女はそれを羽織りながら、わ、ボタン反対についてるー! とかはしゃぎながら、ねねっ、自分のさ、男物の服を女の子が着てるとそそる? えろい? えろい? と、僕をからかいながら笑い転げてて、僕は、ひなってほんと色気ないよなとか言いながら近くのクッションを投げて、彼女は昔好きだったくせによーと、余った袖を振り回しながらふくれっ面で僕の肩あたりを叩いてきた。

 そうやってしばらくじゃれ合ってると隣の部屋から壁をドンッと叩かれて、僕らは必死に笑いを堪えながらしーっ、しーと言い合って、それが何だかおもしろくって彼女はまた笑いそうになって、その度に僕はドンッと口で壁を叩かれる音を真似して、そんなことを最終的に彼女がお願いだからやめてと笑いながら涙を流し始めるまで続けた。

 あ、雨止んでるよ。私花火持ってきたから、ちょうど良いしやりに行こっ。

 彼女が窓の外を見ながらそう言ったのは、とっくに0時を過ぎていた頃だった。一日中降り続いていた小雨はいつの間にか止んでいて、僕らは外へ出て花火をすることにした。夜の公園は暗くて蒸し暑くて、だけど吹く風にはいくぶんか秋らしさが含まれるようになっていた。彼女が買ってきた子供用の花火セットには蝋燭がついていなくって、二人で身体を壁にしながらライターで火をつけて、蒸し暑いけど風は気持ちいいねと僕が言って、もうすぐ秋だね、と彼女が言った。たぶん僕と彼女が考えていることは少し違っていて、だけどそんなこと気にならないくらい花火は綺麗で、その光に照らされた彼女の横顔はもっともっと綺麗だった。

 結局僕たちは雨のせいで少し湿気っていた花火を半分残して部屋へと戻った。しばらく一緒にテレビを見て、着替え持ってきてないから帰ると言う彼女を家の前まで送ってあげて、今日はありがと、と彼女は小さく手を振って家の中へ入っていった。

 部屋に戻って彼女と僕とで散らかしたクッションや空き缶なんかを集めていると、それらに引っ付いていたみたいに残っている僕の服を着ていた彼女やその格好のまま無防備に笑っていた姿が思い出される。彼女がむすっとしながら、でも嬉しそうに言った、昔好きだったくせによーという言葉。もしも。もしも、僕がまだ好きなままってことがバレてしまったら、きっともうこうやって会えないんだろうな、なんとなくそう思って、そんなことを考えると鈍い波が僕の肺の中を少しずつ満たしていくように苦しくなって、誤魔化すように彼女が飲み残した缶チューハイをぐっと飲み干した。

 部屋を一通り片付け終えたあと、やり残した花火のことを思い出してベランダで一本の線香花火に火をつけた。一人でした線香花火は驚くくらいの煙をもくもくと立てて、それはあの日飲んだ熱いコーヒーの湯気みたいで、小さな音を立てて燃える線香花火の控えめな灯りは、あの日二人で見た金木犀の花にそっくりで、僕は思わず苦笑する。

 もうすぐ夏が終わる。彼女のことを好きになって二度目の秋がくる。金木犀の香りが似合う季節。僕のあげた金木犀の香りがする練り香水を今年も彼女がつけてくれるのかは分からないし、何だかんだで気遣い屋のひなのことだ。きっと告白されたことを気に揉んで使わないんだろう。それでも良いと思った。

 今年もあの品の良い喫茶店へ二人で行こう。京都駅から出ている嵐山行きのバスにまた二人で飛び乗って、恥ずかしそうにする彼女に何かの香りがする練り香水をプレゼントして、何かを言おうとする彼女を言いくるめて付けてもらって、それからもう一度勘違いして呆気なく振られるのも悪くないかもしれない。そんな楽しくてみじめな妄想をしながらよしっと自分を奮い立たせようとした時、秋らしさを含んだ風が吹いて、線香花火の火が、じっ、と音を立てて落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

登場人物紹介
僕:知らない人
日奈香:知らない人
壁をドンッと殴った隣人:僕

 

最後の桜が散るまでに

 「あの、よろしくおねがいします」

 小さくおじぎをした彼女が少し緊張していたのを覚えている。大学の後輩で、誰かにくっついて、知らない人ばかりの僕らの飲み会にきてくれた子だった。

 桜の季節ど真ん中、出会いの春なんてかこつけて失恋したばかりで傷心中の僕のもとに知っている子と知らない子が10人くらい、特に桜を見るわけでもなく、ただいつもみたいに僕の家に集まって、みんな好き勝手していいからねーなんて仕切る人に、ここの家主は俺だからなんて笑って、まあいつもの、特に何の変哲もない日だった。

 花見行きたいなー、でも今から行っても場所なんか空いてないよねーなんて、そんな話を一人の友達としながらちょうど空になった缶ビールを潰して、何気なくスマホを取り出した時にベッドの上に座って飲んでいた別の女友達からいきなり話しかけられた。

「それ、あんたのスマホの画面割れすぎだって。ちょっとやばくない? ちゃんと直しなよ」

 たしかに僕が持っていたスマホの画面はかなり割れていて、でも使えるからまあいいか、最新機種だから修理とか高そうだし、とか思いながらも、まあでも直すべきだよなってそんな気もした。僕はそんなことあまり気にしてなかったけど、言われてみるとまあ、そうかな、みたいな。

「そうなんだけどね。すぐまた割っちゃいそうだしさ」

 とりあえず冷蔵庫から新しい缶ビールをとるためによっこらしょっと立ち上がって、げっ、もうビールないじゃんとか言いながら、ほろよいを取り出してぼんやり飲んでいると、初めに小さくおじぎをした子がそそそっと僕のそばに来て、自分のスマホを見せてきて「私の、も。も? かな? 割れちゃってる疑いありです」と、元気出してねみたいな感じでにこってして、わざわざそんなこと言いに来てくれたの? ありがとうって思わず俺も笑っちゃって、実はもう一つあるんですけど、

「私、缶ビール苦手で、あの、なかなか減らないんで、そのほろよいと交換してください」と恥ずかしそうに言った。

 一通り笑い転げた後にどうぞどうぞありがとうってお互いの缶を交換して、じゃあ改めて乾杯ねって、缶はかちんと鳴って、僕は一発でこの子のことが好きになった。そんな風な出会いがあって、僕はとても自然に彼女の行動や仕草に可愛らしさを感じたし、彼女はまるで僕になつくように連絡をくれるようになった。

 それから彼女とはたびたび遊びに出掛けるようになって、そんな時、僕はいつも彼女の左手側にいて、彼女は僕の右手側にいた。右利きの僕と、左利きの彼女とはそうすることで強く、固く結びつくように思った。少なくとも、その頃の僕はそう感じていたし、少しも疑うことはなかった。僕は何度か彼女の左手を握ったし、そして彼女はたまにその手を握り返してくれた。僕はそれが嬉しくて彼女の顔を覗き込み、すると彼女もつられてこっちを見る。幸せだった。付き合おうとかそんなことは口に出さず、代わりに僕は彼女に「ずっと一緒にいようね」と何度も言って、そのたびに彼女は不思議そうに、うん、と頷いた。

 前の彼女にこっぴどく振られて、恋愛とか付き合うみたいなことが信じられなくなっていて、これ以上傷つきたくなくて、僕は彼女の気持ちに気付きながらも鈍感な振りをし続けて、もう少しだけこのぬるま湯のような関係が続くように、そうやって時間を引き延ばして引き延ばして、甘え続けていた。

 僕と彼女は僕の小さな部屋に居る時も、いつも隣りあわせでベッドを背もたれにして座った。足を投げ出して、真ん中には灰皿があって、そしておそろいのマルボロライトと一つの淡いブルーのジッポ。そこが僕らの定位置だった。僕の右側に彼女、彼女の左側に僕。そうやっていると彼女の顔を直接見ないで済んだし、彼女のことを正面から考えることを先延ばしにしていられると、そんな風に思っていた。

 彼女は何度か僕に料理を作ってくれた。パスタが好きな僕の要望に応えようと一生懸命に食材を選び、そこにひとひねりの彼女らしさを織り交ぜて、僕が好きなにんにくがきいたスパゲッティを作ってくれた。彼女の手はそんな時いつもにんにくの匂いがして、彼女の髪の毛はいつもあたたかな匂いがした。それは大人の女の香りとは違ったし、かと言って、小さなこどもの匂いでもなかった。「おひさまだよ。おひさま」彼女はそういって笑って、そして指にくんくんと鼻を近づけ「今日もにんにくの匂いだ」と言った。僕は彼女の髪の毛の匂いも、にんにくの匂いがする少ししめった手も大好きだった。

 大きな皿にパスタを盛り、テーブルの上においてくれる。僕が先に一口ほおばり、彼女はキッチンで「どーですかー」と言う。

 僕は彼女のそばまで行って、そして耳元で、やや元気よく、すっごくおいしい、と言った。

「やったー!」

 両の手でピースして、そのピースをぐにぐにと曲げながら僕らは笑いあった。そしてまた隣り合わせて座ってフォークを握り、元気よく同じタイミングでお皿へとフォークを伸ばした。

 僕の右手と彼女の左手は何度もぶつかる。

「あっ逆に座ったほうがよかったですね。手が」彼女はそう言った。

 うーん、このままでいいや。

 もう少し。もう少しだけこうしてたい。結局僕がその時何を考えているかなんて彼女はよくわかってなかっただろうし、僕も彼女が大切にすることをわかってなかったのかもしれない。その頃のことをどう思い返しても、どんな場面を切り取ってみても、彼女はいつも笑っていて、器から溢れてしまいそうな温かな冬の日の張り湯みたいな、こぼれてしまいそうな笑顔しか浮かんでこない。

 僕は絶対とかずっとみたいな言葉をよく使った。そんなものありえないってことくらいもちろん僕も知っていたし、だからこそこんなあいまいな関係には相応しいと思った。バランスをとっていた。あるいは、せめて強い言葉で自分を慰めたかっただけなのかもしれない。僕は普段から使う言葉で彼女と接することができなかった。

 僕らはいつでも隣り合わせだった。しっかりと手をつなぎ、僕は自分の手に汗を感じ、そして彼女の手にもそれを感じた。 僕たちは同じ景色を見ていた。しっかりと、離さないように握った彼女の手の体温を頼りに僕は歩いた。

 僕があんまり強く彼女の手を握っていたから、一緒に見ていた同じはずの景色に、僕たち自身は映らなかった。僕たちは鏡に映った自分と相手を、自分自身と相手自身だと思っていたのかもしれない。鏡の中の僕は少しいびつな冷静さで彼女を守ろうとしていたし、鏡の中の彼女は照れながら、まだ自分の魅力に気づくことができずにいたのかもしれない。

 腕の中に抱きしめたときでさえ、僕は手を離すことはなかった。僕の胸の中でこぼした彼女の涙に気づかないまま、つないだ手のひらと手のひらをとても幸せに、抱いたちいさな両の肩をひどく愛おしく感じた。とても悲しいことだけど、身体を重ねることは彼女にとって、身体に触れる僕の腕は彼女の意識にとってはぬくもりよりも冷たくて、彼女の意識の外にある身体にとっては熱すぎる、他人の自分勝手な欲望そのものだった。

 あの夜も、僕が強く抱きしめていたあの夜でさえも、彼女は本当は独りぼっちだった。そして彼女は疲れてしまっていた。いろいろなことに、ひどく。たくさんのことに、ふかく。一番そばにいたはずの僕は、彼女のことを守れなかった。気付こうとさえしなかった。僕はただ彼女のことを欲していた。欲しがるばかりだった。

「もう、会えません」

 送っていった桜ヶ丘の駅で、僕が聞いたその声はいつもと同じ少し鼻にかかった幼い声で、いつものちいさなえくぼを見せた、それでもきっとそれは精一杯の笑顔で、大きな瞳には涙をいっぱいにためていて、そこにははじめて僕が、自分のことばかり考えている僕が映っていた。

「あなたがどうしたいのか、わからないです」

 春の花は強く咲きこぼれ、雨を待たずして散ってしまった。その花の淡い花芯は、静かにひっそりと涙を流し、そして、目の前から消えてなくなってしまった。最後に見た笑顔が、悲しいはずの散り際の花が、一番きれいだった。そんなこと言わないで、ほら、ずっと、さ。

「こんな関係なら、ずっとなんか、続かないです」

 彼女は、本当に真正面から僕の言葉を受け止めてくれていて、だけど僕が彼女にかけた言葉たちは、そうやって受け止めるにはあまりにも重すぎて、ぼろぼろになった手と心で、それでも彼女は最後まで待ってくれていた。どうして。どうして、なら、ずっと笑顔で居たのさ。あんな言葉を真に受けるほうがおかしいよ。ほんとにずっとってあると思ってるの? 僕にはもう、彼女を傷つけることでしか、自分を確かめることが、慰めることができなくなっていた。

「私はずっとってちゃんとあると思ってるよ」

 それでも彼女は、これだけ傷つけられてもなお純粋なままで。優しくて。強くて。だから。

 もうきっと会えないけれど、きっと、幸せになっていく彼女。幼くて可愛い彼女が、きれいになっていくのが切なくてせつなくて、だから。彼女の言う通りにお別れしよう。これっきりにしよう。

「最後にキスだけしてくれませんか」

 笑いながらそう言った彼女の手を、やっぱり僕は自分から離すことはできなかったけれど、それでも彼女のことを初めて正面から見れたような気がした。もう何もかも遅いけど、正面から見た彼女の顔は、思い出の中の、僕だけの想像の中に居た横顔じゃなくて、それでも想像していたよりもずっと美しかった。

「実はこれ、ファーストキスですから」

 唇を離したあとに彼女が小さな声で言ったその言葉の意味を、今はもう確かめるすべがない。僕たちの手は確かに離れ離れになって、彼女は僕からはもうどれだけ手を伸ばしても届かないところへ行ってしまった。

 きれいになってゆく彼女のことを、幸せになってゆく彼女のことを、二度と聞くことのできないあの笑い声と、もう二度と見ることのできない笑顔を、大きな瞳を、くっきり浮かぶちいさなえくぼを、いっつも弛んでいた可憐な唇を、まっしろで折れちゃいそうな肩を、彼女を、ほんとうの気持ちを、僕は知ることも無かった。僕は何も見ていなかった。

 難しいことじゃなかったのだ。信じればよかった。ただ、正面から抱きしめて、それから歩いていけばよかった。幸せにしてあげたかった。できることなら僕の手で。そうなってほしかった。

 雨の降る日、桜ヶ丘の商店街にはあの時と同じようにぽつりぽつりと明りが灯りだして、隣の八百屋に張り合うように野菜ばっかり並ぶスーパーの前を、ペットボトルばかりがうんざりするほど並ぶもうひとつのスーパーの前を、ひどく薄くピザを焼くレストランの前を、水みたいなカレーを出す洋食屋の前を、ビールやワインを買った酒屋の前を、友達と同じ名前の靴屋の前を、強く走った。息が詰まるほど、声にならないほど、涙を流しながら、僕は走った。他にはそうするしかなかった。 

 桜ヶ丘の町の隅々が、いちいちが、僕に何かを思い出させて、僕はその都度女々しく胸を痛めた。それでも、もう、僕にはそうするしか思い付けなかった。彼女と初めて出会った僕の部屋、彼女が割れたスマホを見せてきて笑いかけてくれたあの部屋、いつも隣り合わせで座った僕たちの定位置へ、今すぐにでも戻らなければならないような気がした。それ以外にはもう、辻褄を合わせる方法がなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一回のつもりが二回もヌいた。(感情が高ぶっていたので)