ビキニ環礁シンジケート

書くことが楽しい

三月三日のセレナーデ

「あなたがこの手紙を読む頃には外はもうすっかり春になっている頃だと思います。去年二人で行ったあの桜並木もそろそろ満開でしょうか。どうですか? 当たっていますか? 一緒に見に行く約束は守れたのかなあ。今こっちはまだ寒くって、だけど病室に射し込む光には少しずつ春らしさみたいなものが感じられるようになってきました。今日は三月三日。えへへ。そうです。自分の誕生日にこうして、私はあなたへ最後の言葉を書き綴っています。

 元気にしていますか。たぶんあなたの事だから、毎日私のことで悲しみに暮れているんだと思います。そんなあなたを想像すると、申し訳ないような嬉しいような、なんだかとても不思議な気持ちになります。どうして突然こんな手紙を書こうと思い立ったのかというと、ちゃんとこれまでの感謝の気持ちを伝えたくなったのと、せっかくの私の誕生日なのに、病室へ戻るとあなたが眠っていたせいで暇になっちゃったからです。えへへ、でも今回だけは許してあげます。ずいぶんと疲れているみたいだったから。忙しい仕事の合間を縫って時間を作ってくれたんだよね。わざわざ誕生日を祝ってくれて本当にありがとう。今日は私にとって、今まで生きてきた中で一番幸せな日になりました。

 実はさっき、余命を宣告されちゃいました。私に残された時間はあと一ヶ月だそうです。本当にごめんなさい。せっかくこんな素敵な誕生日プレゼントまで用意してくれたのに。約束できなくてごめんなさい。断ってしまってごめんなさい。でも本当は、とっても嬉しかったんです。いつ死んでも悔いなんかないってずっと思ってたのに、指輪なんか貰ったら少しだけ欲が出ちゃいそうです。できることならもう少しだけ二人で悩んだり、喧嘩したり、仲直りしたり、遊びに行ったり、笑い合っていたかったです。あなたに頭をぽんぽんされたり、手を握られたり、抱き締められたり。そんな風にもっとあなたと一緒に過ごしてたかった。だけど私の心は今不思議なくらい穏やかで、自分が死ぬことに対して後悔や不安なんかはありません。むしろ病気になっちゃって感謝できたことだってあるんです。たとえば、こうやってあなたの寝息を聞いているだけで、生きてるってことは奇跡なんだと、改めてそんな風に思えるようになりました。

 まだあなたが起きないので少し昔話をしようと思います。あなたはいつも楽しそうに笑っていて、だけど感動したりなんかすると意外と涙もろいところなんかもあって、とにかく優しくて明るい人でした。思い返せば私たちはよく周りから似てないと言われてきたね。でも実は、それと同じくらい似ているところも多かったんだよね。私は家の中にいて本を読んだりすることが好きだったけれど、あなたは外に出て映画を観ることが好きでした。私はコーヒーが好きで、あなたはコーヒーが飲めなかったけれど、私が淹れるコーヒーを美味しいと言ってくれて、付き合う前なんかはそれを飲みながら借りてきた映画をよく二人で観ました。あなたと観る映画はなぜかいつもつまらなくって、でもあなたが泣いたり笑ったりしているのが面白かったから、私はあの時間が実は結構好きでした。

 あなたから告白された日、大学の食堂でいきなりあなたが、好きです、付き合ってくださいと言ってくれた時、ムードとかないのって思わず笑っちゃったけど、あの日が私にとってこれまでで一番幸せな日でした。ふふ。今日のあなたのプロポーズとちっとも変わらないなあ。学食から教室へ戻る間、あなたは私の手を繋いできて、通りかかる人通りかかる人に、俺ら付き合うことになったの、と嬉しそうに言っていて、本当に恥ずかしくて顔から火が出そうでした。

 怒った時、いつも仲直りのきっかけを作ってくれて、私を素直にさせてくれたのはあなたでした。落ち込んだ時、いつも真っ先に駆けつけてくれて、さり気なく励ましてくれたのもあなたでした。嬉しかった時、いつも私の隣にいてくれて、それを与えてくれたのがあなたでした。口下手な私は今までついに言えなかったけど、あなたのことを愛していました。こうやって今、隣で眠っているあなたの横顔を眺めていると、自然と笑みが溢れてしまうくらいに大好きでした。

 一昨年、一緒に水族館へ行ったときのことを覚えていますか。イルカショーが始まった途端にあなたは大はしゃぎで人混みの中に飛び込んでいって、結局はぐれちゃって一緒に観れなかったよね。それで怒った私にあなたはすごくうろたえながら、ちょっと待ってて、とまた私のことを一人にして、何をしに行ったのかと思っていると、二十分くらいして大きいイルカのぬいぐるみを抱き締めて嬉しそうに戻ってきたよね。それを見た途端、怒ってるのが馬鹿らしくなっちゃって、思わずあきれて笑っちゃいました。あの時、私がイルカショーを観れなくて怒っているとでも思ったんですか? その後、もう良いからと言う私を無理やり二回目のイルカショーに連れて行ってくれました。大の大人が自分より大きなイルカのぬいぐるみを抱えながらイルカショーを観ていたもんだから、周りからの視線でイルカショーどころじゃなかったんだよ。でも実は、ちゃんとあなたとイルカショーを観れてちょっぴり嬉しかったり。

 こんなことを書いてるとどんどん思い出が溢れ出てきちゃいますね。お別れするのが悲しくなっちゃいます。だけど、あなたがこれを読んでいる頃には私はもう居ません。本当にごめんね。最後まであなたを困らせてばかりでした。だけど困らせついでに、もう一つだけお願いがあります。今はそうやって悲しみに暮れているあなたにも、いつか心から愛したいと思える人と巡り合う日がくると思います。その時はどうか、ためらうことなくあなたの愛をあげてください。あなたは真っ直ぐな人だから、その不器用さが心配です。どうか私の抜け殻に埋もれないでください。私にくれたあなたのその甘やかなぬくもりで、いずれできるあなたの大切な人を包んであげてください。

 私はもう、あなたから充分なほどの愛をもらいました。病気になって痩せた指にもピッタリな指輪ももらいました。えへへ。実はあなたがずっと眠っているから、我慢できなくて少しだけつけちゃいました。可愛いなあ。ちゃんと私に似合ってるのかな? あなたと出会えて、私は世界一の幸せ者だったよ。だからあなたも私のことはどうか忘れて幸せになってね。そしていずれできる大切な人のこともちゃんと幸せにしてあげてください。あっ、せっかくなので、やっぱりもう一つだけわがままを言っても良いですか? そうやって他の誰かと幸せになっても、一年に一度の私の誕生日くらいはそっと思い出してください。それだけが私のささやかな願いです。

 ずいぶんと長くなってしまいました。あなたは相変わらず全然起きる気配がないので、そろそろ叩き起こしちゃおうと思います。いい加減寂しくなってきました。その時、私は少し怒ったような顔をしてると思うけど、今度はもうイルカのぬいぐるみはいらないからね。

 ここに書き切れなかったことはまだまだありますが、それでも私のすべてを込めて書きました。もしまたいつかどこかで出会うことができたら、この手紙を読んだ感想を聞かせてください。今まで本当にありがとう。どうか元気で。いつもあなたを見守っています。 日奈香より」

  今思えばその日は世間一般的にはなんでもないただの土曜日で、けれど僕の彼女の誕生日で、僕がプロポーズしようと決めていた日だった。給料三ヶ月分とは言わないけど、病気になってずいぶんと痩せ細った彼女の指にも綺麗に映えるよう、新卒二年目にしては頑張って小さなダイヤのついた指輪に決めた。ポーカーフェイスなひなのことだから、きっと涙を流して喜んでくれるなんてことはないだろうけど、いつもみたいに澄ました笑顔くらいは見せてくれるだろう。そう思うと早くひなに渡したかった。

 ひなが倒れたのは去年の初夏だった。彼女の両親から突然何の前触れもなく連絡がきて、彼女が病院に搬送されたこと、すぐに駆けつけてやって欲しいということを伝えられた。急性骨髄性白血病。それが彼女の病名だった。ついこの間まで楽しそうに花見をしていた彼女は少し息切れしたりはしていたけれど、いつもみたいに楽しそうに笑っていて、そんな風には全然見えなくって、僕が病室に飛び込んだ時もいつもと変わらない顔で、来年の花見までにはちゃんと治すねーと笑ってくれたほどだった。ゆっくり休んで早く元気になってね、とぼくは言って、彼女は、はーいと明るく言った。

 それから一ヶ月経って、半年が経って、その間に彼女はどんどんと痩せていった。ただでさえ小さな肩と胸が一段と小さくなって、そんなことを言うと彼女は「むっ」と言って、僕は彼女のほっぺたを横に伸ばして笑った。でもその時にはもう彼女のほっぺたはあまり伸びなくなっていて、それで途端に怖くなってしまって、彼女の身体が壊れてしまわないくらい強く抱き締めてみたりして。そんな時、いつも彼女は、どしたの、と優しく僕の頭を撫でてくれた。そして決まって、大丈夫だよすぐに良くなるから、と言った。

 年が明けてすぐ、彼女の両親から呼び出された。彼女の容態があまり芳しくないこと、抗がん剤がうまく効かないこと、近いうちにもしかするかもしれないということ。そして娘のことはもう忘れて、自分のしたいことをしてくれても良いということ。僕はただ、日奈香さんを近くで支えることが自分のしたいことです、必ず彼女は良くなります、と言って、彼女の両親からは、ありがとう最後までそばにいてやって欲しいと涙ながらに言われて、その時現実感を持った死というものの温度に触れてしまったような気持ちになって、彼女が倒れてから初めて泣いた。

 病院からの帰り道、彼女の誕生日にプロポーズしようと決め、それから二ヶ月間がむしゃらに働き続けた。週に二回、彼女の病院へ行く以外の時間は全て仕事にあてた。その間にも彼女はどんどんと痩せ細っていって、僕は不安になる度に彼女を抱き締めたり、さりげなく彼女の匂いをかいだりして、どうしようもなくなった時はあからさまに胸一杯に吸い込んだ。病院特有の匂いに混ざって、甘い彼女の匂いがした。どしたの、と彼女が僕の髪を撫でて、大丈夫だよすぐに良くなるから、と僕が言う。

 誕生日当日、その日は午後から診察があったので、僕は面会時間が始まるとすぐに彼女の病室へと行き、誕生日おめでとう、と言いながらドアを開けた。中にいた看護婦はくすくすと笑いながら席を外してくれて、彼女は恥ずかしそうに、その節はどうもありがとうございます、と妙に改まって笑いながら言った。

 今日はひなに大切なお話があります。

 こほんと僕が咳払いをして、彼女はそんな僕をおかしそうに見つめながら、はい、大切なお話をしてください、と冗談めかした。

 好きです、結婚してください。

 そう言うと僕は鞄から小さな指輪の包みを取り出した。彼女は固まったようにその箱と僕とを交互に見続けて、震える手で布団を掛け直した。しばらく黙っていた彼女はどうしてと言いたげな目をしながら、今は約束できません、ごめんなさい、と同じくらい震えた声で言った。それは病気が理由ですか、と僕が尋ねると、彼女はそれには答えず、その箱を開けてみてもいい? と言って、まるでロボットが人間の子どもを抱きかかえるみたいにぎこちない動きでティファニーブルーの小さな箱を開けた。

「どうしよう、すっごく嬉しいなあ」

 彼女は独り言のようにそう呟くと、しばらくの間ずっとその指輪を眺めていて、ようやく決心したように箱を閉じた。

「病気が治るまで、この指輪は私が預かっておきます」

 そう言った彼女の顔には満面の笑みが浮かべられていて、僕はそんな彼女の笑顔を初めて見た。その笑顔は今まで見た彼女の中でもとびっきり可愛くて、病気だってことなんか一発で忘れちゃうくらいの破壊力があって、僕には二度と必要のない不安や悲しさなんかをほんの一瞬で奪い去っていった。

 彼女はその後もずっとその箱をむにむに触ったり丁寧にリボンをかけ直したり、プロポーズを断った人とは思えないくらい嬉しそうにしていて、僕はそんな彼女の頭をさららと撫でながら、お医者さんからダメだと言われていたキスをした。ほんの触れるくらいのキスだったけど、久し振りの彼女の唇はびっくりするくらい柔らかくて暖かくて、ちゃんと彼女はそういった彼女らしさを失わずに生きていて、それは同時にあまりにも残酷だった。

 検査のために彼女が呼ばれて、一時間くらいかかるからどっかでご飯でも食べてきて、と彼女は今にもスキップでもしそうな足取りで病室を出て行った。ふと窓の外を見ると、まだ蕾をつけただけの桜の木が見下ろせた。

  彼女が元気になって、もう一度手を繋ぎながら去年と同じ桜並木の下を歩きたいな、なんてことをふと考える。去年と同じ川沿いの道を、でも去年とは違って彼女の左手の薬指には小さな指輪があって、僕は一人でそんなことを考え続ける。不安にならないように。言い聞かせる。きっと大丈夫。

  彼女はあんなにも彼女らしいままで、空っぽのベッドには元気な頃と同じ彼女の体温が残されていて、唇の柔らかさは元気な頃と少しも変わらなくって。病気は彼女から、何一つ彼女らしさを損なわせることが出来ていないかのようだった。

 彼女の居ない病室には、だけど彼女の気配がこんなにも強く残っていて、けれど、けれど彼女の命はたしかに儚く小さくなっていて、唇に残った感触だけが唯一、僕が確信をもてる彼女が存在する根拠みたいで、僕はそのことに強く心を痛めたけど、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おちんちんの方がもっと痛かった。(病室でヌいてそのまま寝た)