ビキニ環礁シンジケート

書くことが楽しい

金木犀は仄かに香って

 夏がもうまもなく終わろうとしている九月の夜、ひどく蒸し暑く小雨が降る中、クーラーが壊れたから涼ませてよ、とお酒と花火を持ったひなが僕の部屋へとやってきた。

 彼女はクーラーの真下に座り扇風機の首振りを自分のところで止めて、持ってきた缶チューハイを開けながら生ーき返るーと気持ち良さそうに目を細めた。缶チューハイを貰って呆れながら彼女の近くに座ると、彼女は他愛のない話を延々と話し始めて、それはしばらくすると彼氏の愚痴に変わって、最近職場の女と仲良さそうに連絡をとってるだの、ご飯を作っても美味しいと言ってくれなくなっただの、しかも食べ終わった自分の食器すら持ってきてくれないだのと、ほんの些細な悪口をひとしきり並べる彼女に対して、僕はいつものように適当に頷いたり、笑ったり、そんな話を振った男に話すかよふつー、なんて毒づいて茶化したりした。

 彼女の汗がすっかりひいて彼氏への愚痴も一通り言い終えた頃、でもね、と今まで並べ立てた悪口のひとつひとつに対して、丁寧に彼氏は私と違って社会人で忙しいからと彼女なりの理解を自分と僕に言い聞かせるように付け加えた。

 ほんと、そんな話を振った男に話すかよふつー。

 僕が同じサークルの日奈香のことを好きになったのは去年の秋だった。サークルの集まりが終わったあと、たまたま帰りが一緒になったひなと今から紅葉でも観に行こっかという話になって、京都駅から出ていた嵐山行きのバスにそのまま二人で飛び乗った。

 彼女はその間、嵐山の紅葉スポットをスマホで真剣な顔で調べながら、ふと顔を上げてはバスの外を流れる色付いた木を見つけて、ほら見て見て紅葉、と嬉しそうに教えてくれて、僕がどうせ今からいっぱい見れるじゃんと笑うと、不服そうな顔でまたスマホに顔を戻して、そんなことを繰り返す彼女がなんだかおかしくって、僕はまた笑って、なにがおかしいの、と彼女は肩をぶつけてくる。

 バスを降りて少し歩いた先にある渡月橋を渡ると、辺りはうんざりしちゃうほどの赤と黄と緑に包まれていて、その下をたくさんの人たちが嬉しそうに歩いていた。紅葉スポットを調べていたはずの彼女は、そんなことはとっくに忘れている様子でスマホを鞄の中に仕舞い込んでいて、どうやらこのまま人混みの流れに身を任せることに決めたようだった。

 途中、品の良さそうな喫茶店を見つけて、テラス席のベンチに隣り合って座り、二人で熱いコーヒーを飲んだ。コーヒーの湯気が彼女の白い肌と真っ黒でまっすぐに切りそろえられた前髪にかかり、そして消えるのを見ながら、僕は「あまり紅葉とかは見えないけどここ落ち着くね」と言って、彼女はうんうんと頷きながら「あれ、少し金木犀の香りがする」と言い、あっあそこほらっ、と近くの大きな木を指差した。そこには終わりかけの小さないくつもの花が控えめに咲いていて、言われるまで気付かなかったけど、たしかに風が吹くとゆったりと金木犀が香ってきた。

「ひなって金木犀とかそんなの知ってるんだ」

 そんなのみんな知ってるもんじゃないの? なになにどした?

 彼女は僕が言ったことに不思議そうに笑いながらコーヒーを飲み干して、僕も遅れてそれに続いた。冷えていた身体はすっかり温まって、それは僕の隣にいる彼女から伝わるぬくもりの中にも感じられて、なんだか僕の中に確かなものとして彼女が存在しているような気にもなった。

 二人で人混みの中に戻ってまたしばらく歩いていると、だんだんと色付いた木々も少なくなっていって、最後には嵐山らしさにうまく溶け込んでいるような店が何軒も並んでいる通りに辿り着いた。そんな店を一軒一軒ゆっくりと眺めながら歩いている時にふと思い付いて、僕は彼女を誘って練り香水を置いている店へと入った。

 えーキャラじゃないし香水とか似合わないし良いよ、とか言いながら珍しく照れてる様子の彼女をいいからいいからとなんとかなだめて、結局、彼女さんにほんとピッタリの香りだと思いますよ、という世話好きそうなおばちゃん店員の後押しが決め手となって、じゃあ使ってみる、と恥ずかしそうにする彼女に一つの練り香水をプレゼントした。

 その日を境に彼女と過ごす時間はどんどんと増えていって、同時に金木犀の香りをふわりとまとった彼女に僕は惹かれていった。いつしか二人であの日に見た紅葉や隣り合って飲んだコーヒーといったものを思い出そうとしても、風景が風景であることを諦めたように僕の顔を見ながら笑っている彼女の顔と微かな金木犀の香りしか思い出せなくなっていった。

 それからしばらくして、冬が秋を追い越した頃、僕はひなに告白して、そして呆気なく振られた。あーごめん、私、彼氏居るんだ。言ってなかったっけ? と申し訳なさそうに言う彼女に、そんなの聞いてないよと思わず笑っちゃって、彼女らしい振り文句のせいで僕はひなのことを余計に好きになっちゃって、彼女も彼女で僕のことを振った後も二人の関係が変わらなかったからか、僕に対する妙な信頼感みたいなものが芽生えたようだった。

 僕たちはそれから、以前よりずっとずっと親密になったし、たくさんの話をするようになって、遊んだり飲んだりした夜、たまに彼女がそのまま僕の家に泊まっていくこともあった。ただ、僕が告白をした日以来、彼女から金木犀の香りはしなくなった。ある日それとなく理由を訊いてみると、振られた時と同じようにあっけからんと、だってもう金木犀の季節じゃないじゃん、と彼女は笑った。

 ねえ、ちゃんと聞いてる? 雨で服が濡れてて寒いからなんか上から羽織れる服貸してってー。

 自分の家みたいにくつろいでる彼女に心底呆れながらシャツを投げてやると、彼女はそれを羽織りながら、わ、ボタン反対についてるー! とかはしゃぎながら、ねねっ、自分のさ、男物の服を女の子が着てるとそそる? えろい? えろい? と、僕をからかいながら笑い転げてて、僕は、ひなってほんと色気ないよなとか言いながら近くのクッションを投げて、彼女は昔好きだったくせによーと、余った袖を振り回しながらふくれっ面で僕の肩あたりを叩いてきた。

 そうやってしばらくじゃれ合ってると隣の部屋から壁をドンッと叩かれて、僕らは必死に笑いを堪えながらしーっ、しーと言い合って、それが何だかおもしろくって彼女はまた笑いそうになって、その度に僕はドンッと口で壁を叩かれる音を真似して、そんなことを最終的に彼女がお願いだからやめてと笑いながら涙を流し始めるまで続けた。

 あ、雨止んでるよ。私花火持ってきたから、ちょうど良いしやりに行こっ。

 彼女が窓の外を見ながらそう言ったのは、とっくに0時を過ぎていた頃だった。一日中降り続いていた小雨はいつの間にか止んでいて、僕らは外へ出て花火をすることにした。夜の公園は暗くて蒸し暑くて、だけど吹く風にはいくぶんか秋らしさが含まれるようになっていた。彼女が買ってきた子供用の花火セットには蝋燭がついていなくって、二人で身体を壁にしながらライターで火をつけて、蒸し暑いけど風は気持ちいいねと僕が言って、もうすぐ秋だね、と彼女が言った。たぶん僕と彼女が考えていることは少し違っていて、だけどそんなこと気にならないくらい花火は綺麗で、その光に照らされた彼女の横顔はもっともっと綺麗だった。

 結局僕たちは雨のせいで少し湿気っていた花火を半分残して部屋へと戻った。しばらく一緒にテレビを見て、着替え持ってきてないから帰ると言う彼女を家の前まで送ってあげて、今日はありがと、と彼女は小さく手を振って家の中へ入っていった。

 部屋に戻って彼女と僕とで散らかしたクッションや空き缶なんかを集めていると、それらに引っ付いていたみたいに残っている僕の服を着ていた彼女やその格好のまま無防備に笑っていた姿が思い出される。彼女がむすっとしながら、でも嬉しそうに言った、昔好きだったくせによーという言葉。もしも。もしも、僕がまだ好きなままってことがバレてしまったら、きっともうこうやって会えないんだろうな、なんとなくそう思って、そんなことを考えると鈍い波が僕の肺の中を少しずつ満たしていくように苦しくなって、誤魔化すように彼女が飲み残した缶チューハイをぐっと飲み干した。

 部屋を一通り片付け終えたあと、やり残した花火のことを思い出してベランダで一本の線香花火に火をつけた。一人でした線香花火は驚くくらいの煙をもくもくと立てて、それはあの日飲んだ熱いコーヒーの湯気みたいで、小さな音を立てて燃える線香花火の控えめな灯りは、あの日二人で見た金木犀の花にそっくりで、僕は思わず苦笑する。

 もうすぐ夏が終わる。彼女のことを好きになって二度目の秋がくる。金木犀の香りが似合う季節。僕のあげた金木犀の香りがする練り香水を今年も彼女がつけてくれるのかは分からないし、何だかんだで気遣い屋のひなのことだ。きっと告白されたことを気に揉んで使わないんだろう。それでも良いと思った。

 今年もあの品の良い喫茶店へ二人で行こう。京都駅から出ている嵐山行きのバスにまた二人で飛び乗って、恥ずかしそうにする彼女に何かの香りがする練り香水をプレゼントして、何かを言おうとする彼女を言いくるめて付けてもらって、それからもう一度勘違いして呆気なく振られるのも悪くないかもしれない。そんな楽しくてみじめな妄想をしながらよしっと自分を奮い立たせようとした時、秋らしさを含んだ風が吹いて、線香花火の火が、じっ、と音を立てて落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

登場人物紹介
僕:知らない人
日奈香:知らない人
壁をドンッと殴った隣人:僕