ビキニ環礁シンジケート

書くことが楽しい

今すぐ恋を諦めるライフハック術

 こんにちは。ぼくは普段、自分の片思いや好きな人への気持ちをブログに書くという気持ち悪い宗教にハマっているんですが、それでもどうしようもなく辛くなったり、もうさっぱり諦めて別の恋がしたい、みたいなことを思う日がありますよね? 僕にはないですが。

 だけど片思いをしている方の中にはそういった方もたくさんいらっしゃると思います。

 ですがこんな弱音を周りに漏らせば最後、月9ドラマに出てくるヒロインの親友ポジション気取りの奴らがどこからともなく現れて、クソの役にも立たないアドバイスを話のまくらに、最後はそいつらの彼氏の愚痴というオチの落語を聴かされるのが関の山です。

 仕方なくうじうじと一人で悩んで、結局諦められないまま時間だけが過ぎ、少し落ち着いて空元気でまた頑張る。本当にそれで良いんですか?

 まだ片思いで消耗してるの?

 そして何より、せっかく諦めるのなら今まで頑張った片思いにふさわしい別れ際がいいとは思いませんか?

 少女漫画とかでよく見かける、今にも崩れてしまいそうな泣き笑いを浮かべながら「ほんとにだいすきだったよ、ばか」みたいなセリフを言って、友達に戻りたくないですか? あれ? そういうのってありません?

 あるんですね。良かった。じゃあお任せください。ぼくがこれからクソの役にも立たない周りからのアドバイスに対して皆さんの思いを代弁しつつ、清々しい気分でキレイさっぱり、そして美しく好きな人を諦める方法をお教えします。

 

クソの役にも立たない周りからのアドバイス

「連絡を絶ったら諦められるよ」

 一度は誰かから言われたことのあるような最頻出アドバイスですね。そして彼らが、いかにぼくたちの苦悩を理解していないのかが分かる象徴的なセリフでもあります。こんなにも好きな、もはや自分自身かそれ以上に好きな人のことを諦めようかなんて、本来集中治療室に入る必要があるレベルの悩みなんですよ。何故か保険が降りないからそうしないだけで、ぼくらにとって好きな人っつーのは体の一部であり、臓器の一つなんです。たぶん呼吸器系の。胸が苦しいし。

 つまりぼくらが好きな人を諦めたいと言う時なんて、人工呼吸器をつけた人が「もう良いんだ……ぼくは十分幸せだ……」つって酸素マスクを外そうとするのと同じ気持ちなんです。そんな人に対して、よく「人工呼吸器が嫌なら息を止めれば良いじゃん」みたいなトンチを言えますよね。

 連絡を絶つって。一緒じゃん。それはこっちからしたら好きな人を諦めるのと同じ難易度なんだよ。こちとら息を止められないから、みじめでも辛くても人工呼吸器をつけてなんとかかんとかやってんだよばーか! 手を握って優しく「そんなこと言わないの、もう少しの辛抱じゃない……」って言ってくれよ。頼むよ。病室を出てから辛そうな顔で少しだけ泣いて、いけない笑顔笑顔つって自分の頬を叩いてくれよ。

「何人かと適当にエッチしてたら忘れられるよ」

 大物。大物が来たわ。オーケーオーケー。お前さんの言いたいことはわかる。もう強制的に、圧倒的な状況に身を置くことで失恋なんて吹き飛ばせっつー話ね。でさ、アドバイス通り、俺今、人工呼吸器を外して酸素カプセルに入ってみたんだけど、これどうしよっか? うん。そうだよね。お前がわかってくれて俺も嬉しい。こんなことわざわざ言いたくないけど、これはいわゆる、悪化、ってやつだよ。状況はより悪くなってるよね。とりあえずさ、出てもいいかな。息をするだけなら、まだ酸素マスクのが楽だわ。

「告白してきっぱり振られたら案外吹っ切れられるよ」

 はーーーーーーー。マジかよ。案外吹っ切れられねーんだよ。だいたいなんで死にかかってる状態でもう一恥かかせようとすんだよ。こっちが諦めたいがためだけに告白して、相手を困らせるなんて普通におかしいだろ。振られる覚悟があるのと振られるために告白すんのは全然違うんだよ。助かりたいから死ぬ確率があっても手術を受けんの。一人で死ぬのが怖いから手術失敗して死なせてくださいなんて、あまりにも相手に失礼だろ。

「他にいい人なんていくらでもいるよ」

 ちょっと待てよ。本気かよ。本気で言ってんのかそれ。「え、そんなの外して普通に息したらいいじゃん。酸素なんて空気中にいくらでもあるよ?」つーことなのか? まさか俺が空気中に酸素があることを知らないとでも思った? 天竜人かよ。ぬす〜〜〜ん、外界の空気なんて吸ったら死んじゃうだえ〜〜!! じゃねえんだよ。ほんとに状況分かってんのか? その空気中の酸素とやらでは生きられないから苦しんでんだよ。いくらでもいねーの。そりゃこっそりマスクを外してみようと思ったことくらい何度もあるよ。けーどーなー!!! 無理なんだよ!!! めちゃくちゃに息苦しいの!!! 酸素マスクは楽なの!!! 心地良いの!!! 自慢か? それは自慢なのか? なんなんだよマジで!!!

「振ったことを後悔するくらい良い男になって見返してやりなよ」

 ほんとどいつもこいつも適当なこと言いやがってさ。俺の気持ちなんて誰にも分かりっこないくせに。黙ってくれよ。関係ないだろ。

「仕事や趣味に打ち込みなよ」

 あーもう!!! うるせえな!!! こっちは今自分のことだけで手一杯なんだよ!!! 馬鹿にするのも大概にしろよ!!! 俺は人工呼吸器を外したら死ぬんだよ!!! けどどうすることもできなくて、こんな思いするくらいなら外したいって、こんな俺の気持ちがお前にわかんのかよ!!!

「あんたには私が居るじゃん」

 いい加減にしろよ!!! お前には俺の気持なんか絶対わかんねーん………………は?

「あんたにも私の気持ちなんかわかんないよ」

 いやお前、何言って、

「だいたいあんた、今、酸素マスクなしで息できてんじゃん」

 それどういう意…………え……? 俺なんで……

「さあね。あんたの気持ちなんて分かりっこないし」

 (……あんたの……気持ち……?)

 

 

 これを読んでどんな気持ちになりました? 色々フォントとかをいじったりして、よくあるお役立ち情報みたいなのを発信してる、ライフハックブログを装おうとして途中から飽きた人の記事を読んだ感想は。俺はただただ、悔しいよ。自分の力不足が。えっと、なんだっけ、キレイさっぱり、そして美しく好きな人を諦める方法だっけ。そんなの不可能だよ。記憶喪失になったって無理。だってみんな『君の名は。』観たでしょ? あれ見て絶望しなかった? この映画って、

大事な人。

忘れたくない人。

忘れちゃダメな人。

誰だ、誰だ、誰だ?

名前は……!

 とか途中で言い合うシーンがあるんだけど、俺それ見て、お、この手があったか、って感心してたのよ。んじゃ、俺の片思いも彗星待ちかーって。早くティアマト彗星降ってこねーかなー、なんてさ。俺、この映画好きな人と観に行ってっからさ、余計そんなことばっか考えてて。したっけ後半いきなり、私たちは、会えば絶対、すぐにわかる、とか三葉が言い始めて、その時だよね。思わず、マジかよ、つった。そういう意味では、俺『君の名は。』に登場してるみたいなとこある。愕然としたもん。これでも無理なのかよ、つって。

 だからなんだろ、記憶喪失でも無理ならさ、もう、物心を失くす、とかしかないと思うんだよね。さすがに物心がないなら、いくら瀧くんと言えども無理でしょ。だあ、だあ、とか言ってるだけなんだし。図書館で文字読めないじゃん。冒頭で今まで頑張った片思いにふさわしい諦め方を教えるだのなんだの言ってた手前、こんな結論はいくら何でもあんまりだろって感じなんだけど、まあ赤ちゃんなんだし、きゃっきゃっ、て笑い泣きしながら、だあ、だあ(ほんとにだいすきだったよ、ばか)みたいなこと言ってても、ありなんじゃないですか?

 え? このメソッドの名前? 知らねーよ。「苦肉」だよ。これが「苦肉」っつーんだよ。坊主、また一つ賢くなったな。じゃあ俺は今から好きな人に、今日は七夕だね、そっちは雨どう? っつーラインを送ってくるから、みんなは物心を失くす方法考えといてください。よろしくお願いします。

ダウトフォーマルハウト

 ラジオからフジファブリックの「Bye Bye」が流れてきて、もうなんだ、暴力的に、ブログを書かなければならないという気持ちにさせられた。深夜。いやー七月になったね。ちゃんと今月も判で押したように好きなまま。もはや金太郎飴。朝起きてから夜寝る瞬間まで、俺を構成するものをどの場所で切り取っても同じ切り口のまま好き。怖い話も面白かった話も悲しい話も、俺、今すげえ好きな人が居んだけど、つーとこから始まる。

 こんな状況を知ってる友達や同僚なんかは、告白して振られたら案外吹っ切れられるよ、とか、他の女と寝たらすぐ忘れるっしょ、みたいな言葉を掛けてくれんだけど、あーごめん、そういうんじゃねーんだ、今回。普通じゃねーの。告って、振られて、新しい恋、みたいな話じゃなくってさ。別の女と寝て、忘れて、新しい恋、みたいなイージーモードじゃないのよ。

 いや、やってみなきゃわかんないじゃんつーか、あの、俺さ、それ全部やらかしてんだよね。その、告って、振られて、とか、他の女と寝て、みたいなの一通りやった上で、ドッタンバッタン大騒ぎしながら今日も大好きだって仁王立ちしてるわけ。こんなの本来、遠距離になって相手に彼氏ができた時点で終わった話だったんだけど、死してなお、その体屈することなく――頭部半分を失うも 好きで居続ける その姿まさに"怪物" この片思いによって受けた心傷 実に――二百六十と七太刀――告白をあしらわれた回数 百と五十二回――結婚を申し込んだ数 四十と六回――――さりとて――その誇り高き後ろ姿には…… あるいはその片思いに 一切の"脈"なし!!! みたいな感じで死に際が言い伝えられてる。今日まで名を残し続けてるだけの状態。名っつーか未練なんだけど。

 たしかにこの状況で、付き合いたいとか呑気なことを考えることは流石になくなった。肉眼ですら見えないような六等星以下の望みに手が届くかもなんて思えるほど、おめでたくもないし楽天的でもない。けど、この戦争を終わらせにきた、とか言いながらミヤタっつー名の四皇が堂々と戦場に乗り込んできて、トチ狂った俺が自分の手でミヤタを刺し殺しちゃった瞬間から、この戦いに終わりなんてなくなったのよ。

 つい先日も、好きな人から直々に、最近(私のこと好きなの)落ち着いてきてない? って訊かれて、あーそれは好き好き言うのをやめたからじゃない? つったら、なるほどーそれでかーって納得してくれた、みたいなハートフルエピソードがあったんだけどさ。気心知れた友達かよっつー話じゃん。お前は当事者だよ。好き好き言ってんのは、惚気とか相談じゃなくって、告白でありアプローチなの。もっかい初めから話そっか? 大丈夫? こんなさ、頭のおかしい無防備な人を放って他に好きな人とか作れる? んなことするくらいなら、大丈夫大丈夫ちゃんと好きだよ、つって、最後はいっそ、馬鹿な息子をそれでも愛そう、って言いながら刺されたい。せめて、お前の手で、つー感じで。

 いや別に脈がないからって落ち込んだり悲しくなったりみたいなことって、この通り、自分でも不思議なほどなくって。つーか多分落ち込めなくなってる自分がいる。悲しくなれないくらい、もう、好きな人のことが好きで、同時にそれを諦めてる。

  あえて不満を挙げるなら、俺のことを放って遠くになんか行っちゃうもんだから、それまで好きな人と遊んでた分の時間が丸々手持ち無沙汰になったってことくらい。俺らって、これまで一二週間に一回くらいのペースで遊んだり飲んだりしてたから、それと同じくらいの頻度でどうしようもなく隙間ができちゃって、別にそれは別の人と会ったり趣味に当てたりでいくらでも埋めようはあるんだけど、なんとなくそれも違うような気がして、ならそんな時は何すんのっつーことで、こんな無益なブログを書いてるわけです。

 深夜の、この誰の気配もない時間帯って、俺がもっとも研ぎ澄まされて爽やかになってる時で、そんな時に思いつくまま文章なんかを書いてると言葉と感覚がどんどん犀利になって、書きたいことが次から次へと溢れてきて、あれもこれも書き留めなければって気持ちになる。きゅるるるるると頭の中で音が鳴って脳みそが熱を持つ頃には、言葉にドライブ感みたいなものが生まれ始めて、その速度の中でだけ、これまで漠然としてた自意識が像を結び始める。だから俺は、なおさら言葉を尽くすことで、その自意識の解像度をあげようとする。

 その過程は俺に、まるで自分一人でも生きていけるような万能感に似た慰みを与えてくれるんだけど、けどそこにはもう好きな人なんて存在していなくて、結局、好きな人が存在しないという前提に立っただけの、まやかしの力だったりする。なんか難しい話になってきちゃったけど、ことは単純で、つまりはどんどん独りよがりになってくっつー。そういうのって付き合っててもあるじゃん。考えすぎるせいで束縛しちゃったり、逆に気を遣いすぎて何も言えなくなったり、そういう相手が不在の身勝手さって。

 それと同じで、画面に溢れ見えてく好きな人への思いとは裏腹に、どんどん独りっきりになってって、自分の中から失いたくなさみたいな気持ちが薄れてゆく。好きな人が現実のどこにいようと何をしてようと、こんなにもちゃんと好きなままいられんなら少しも問題じゃねーよ、みたいな感じで。好きな人の一挙手一投足に拘って、一つの瞬間のことを擦り切れるくらいこねくり回して考える度、空気抵抗が無い場所で人を思うように、小さな力でいくらでも滑っていって、本当の好きな人からは遠のいてゆく。好きな人が不在のまま、俺の思いだけが膨んで先走って、ふと我に返って振り向くと随分遠くに好きな人が居るような。

 だからさ、これは別に今病んでるとかそんなんじゃないし、むしろ俺がこれまでに書いてきた好きな人に関することって全部、惚気てるくらいの感覚で書いてるんだけど。

 今、午前2時24分で、あと数時間後には起きなきゃなんないんだけど、すっげえ好きな人に会いてー。なあ、お前今、何してんの? ちゃんと眠れてんの? クーラーつけてちゃんと布団被ってる? 引っ越し初日にさ、まだまだ部屋も寒くって、お前がエアコンのリモコンがないっつって電話かけてきてさ、部屋中ひっくり返しながら、死んじゃう死んじゃうってどんどん元気がなくなってく様を何時間も笑いながら聞いてたからさ、またリモコン失くしちゃってないかとかちょっと心配なのよ。ちゃんと飯食ってる? 普段何して生きてんの? ただでさえ貧血気味なのによく転んだり指を切ったりして、いつもどっかから血を流しながら現れるからさ、そういうとこはちょっとじゃなくてかなり心配してる。

 だから一回直接顔を見てさ、許してくれんなら、ちょっとだけ強めに抱き締めたい。あ、いや、これは心配とか全然関係のない、俺の個人的な願望なんだけど。ダメかな? 二秒くらいで離れる予定だけど。好きな人の体温を確かめて、ちゃんと好きな人が生きてんだなってことさえ分かれば、一瞬にして疑いようもなく一直線にまた好きな人のすぐ隣まで戻ってこれる。俺が今どこに居て、好きな人が何をしてても、宇宙を丸ごと分割出来ちゃうような一本線でもって、最短距離で好きで居続けられる。

 最近落ち着いてきたのかな、なんてお前が思ってる間に、俺は何千何万つー文字を重ねて、そこから選りすぐった二文字だけを連れて今日もこっちで生活とかしてるわけ。それをわざわざお前に見せない日もあるってだけ。大丈夫。俺もがんばるから、お前もがんばれ。

 たとえお前が六等星以下のどこにあんのかもわかんねー星だとしても、俺は南の方でぽつんと一人、ちゃんとアピールし続ける。俺はそんな風に、宇宙規模で好きな人のことを全うする。人間規模でならただの馬鹿なんだけど。

金木犀は仄かに香って

 夏がもうまもなく終わろうとしている九月の夜、ひどく蒸し暑く小雨が降る中、クーラーが壊れたから涼ませてよ、とお酒と花火を持ったひなが僕の部屋へとやってきた。

 彼女はクーラーの真下に座り扇風機の首振りを自分のところで止めて、持ってきた缶チューハイを開けながら生ーき返るーと気持ち良さそうに目を細めた。缶チューハイを貰って呆れながら彼女の近くに座ると、彼女は他愛のない話を延々と話し始めて、それはしばらくすると彼氏の愚痴に変わって、最近職場の女と仲良さそうに連絡をとってるだの、ご飯を作っても美味しいと言ってくれなくなっただの、しかも食べ終わった自分の食器すら持ってきてくれないだのと、ほんの些細な悪口をひとしきり並べる彼女に対して、僕はいつものように適当に頷いたり、笑ったり、そんな話を振った男に話すかよふつー、なんて毒づいて茶化したりした。

 彼女の汗がすっかりひいて彼氏への愚痴も一通り言い終えた頃、でもね、と今まで並べ立てた悪口のひとつひとつに対して、丁寧に彼氏は私と違って社会人で忙しいからと彼女なりの理解を自分と僕に言い聞かせるように付け加えた。

 ほんと、そんな話を振った男に話すかよふつー。

 僕が同じサークルの日奈香のことを好きになったのは去年の秋だった。サークルの集まりが終わったあと、たまたま帰りが一緒になったひなと今から紅葉でも観に行こっかという話になって、京都駅から出ていた嵐山行きのバスにそのまま二人で飛び乗った。

 彼女はその間、嵐山の紅葉スポットをスマホで真剣な顔で調べながら、ふと顔を上げてはバスの外を流れる色付いた木を見つけて、ほら見て見て紅葉、と嬉しそうに教えてくれて、僕がどうせ今からいっぱい見れるじゃんと笑うと、不服そうな顔でまたスマホに顔を戻して、そんなことを繰り返す彼女がなんだかおかしくって、僕はまた笑って、なにがおかしいの、と彼女は肩をぶつけてくる。

 バスを降りて少し歩いた先にある渡月橋を渡ると、辺りはうんざりしちゃうほどの赤と黄と緑に包まれていて、その下をたくさんの人たちが嬉しそうに歩いていた。紅葉スポットを調べていたはずの彼女は、そんなことはとっくに忘れている様子でスマホを鞄の中に仕舞い込んでいて、どうやらこのまま人混みの流れに身を任せることに決めたようだった。

 途中、品の良さそうな喫茶店を見つけて、テラス席のベンチに隣り合って座り、二人で熱いコーヒーを飲んだ。コーヒーの湯気が彼女の白い肌と真っ黒でまっすぐに切りそろえられた前髪にかかり、そして消えるのを見ながら、僕は「あまり紅葉とかは見えないけどここ落ち着くね」と言って、彼女はうんうんと頷きながら「あれ、少し金木犀の香りがする」と言い、あっあそこほらっ、と近くの大きな木を指差した。そこには終わりかけの小さないくつもの花が控えめに咲いていて、言われるまで気付かなかったけど、たしかに風が吹くとゆったりと金木犀が香ってきた。

「ひなって金木犀とかそんなの知ってるんだ」

 そんなのみんな知ってるもんじゃないの? なになにどした?

 彼女は僕が言ったことに不思議そうに笑いながらコーヒーを飲み干して、僕も遅れてそれに続いた。冷えていた身体はすっかり温まって、それは僕の隣にいる彼女から伝わるぬくもりの中にも感じられて、なんだか僕の中に確かなものとして彼女が存在しているような気にもなった。

 二人で人混みの中に戻ってまたしばらく歩いていると、だんだんと色付いた木々も少なくなっていって、最後には嵐山らしさにうまく溶け込んでいるような店が何軒も並んでいる通りに辿り着いた。そんな店を一軒一軒ゆっくりと眺めながら歩いている時にふと思い付いて、僕は彼女を誘って練り香水を置いている店へと入った。

 えーキャラじゃないし香水とか似合わないし良いよ、とか言いながら珍しく照れてる様子の彼女をいいからいいからとなんとかなだめて、結局、彼女さんにほんとピッタリの香りだと思いますよ、という世話好きそうなおばちゃん店員の後押しが決め手となって、じゃあ使ってみる、と恥ずかしそうにする彼女に一つの練り香水をプレゼントした。

 その日を境に彼女と過ごす時間はどんどんと増えていって、同時に金木犀の香りをふわりとまとった彼女に僕は惹かれていった。いつしか二人であの日に見た紅葉や隣り合って飲んだコーヒーといったものを思い出そうとしても、風景が風景であることを諦めたように僕の顔を見ながら笑っている彼女の顔と微かな金木犀の香りしか思い出せなくなっていった。

 それからしばらくして、冬が秋を追い越した頃、僕はひなに告白して、そして呆気なく振られた。あーごめん、私、彼氏居るんだ。言ってなかったっけ? と申し訳なさそうに言う彼女に、そんなの聞いてないよと思わず笑っちゃって、彼女らしい振り文句のせいで僕はひなのことを余計に好きになっちゃって、彼女も彼女で僕のことを振った後も二人の関係が変わらなかったからか、僕に対する妙な信頼感みたいなものが芽生えたようだった。

 僕たちはそれから、以前よりずっとずっと親密になったし、たくさんの話をするようになって、遊んだり飲んだりした夜、たまに彼女がそのまま僕の家に泊まっていくこともあった。ただ、僕が告白をした日以来、彼女から金木犀の香りはしなくなった。ある日それとなく理由を訊いてみると、振られた時と同じようにあっけからんと、だってもう金木犀の季節じゃないじゃん、と彼女は笑った。

 ねえ、ちゃんと聞いてる? 雨で服が濡れてて寒いからなんか上から羽織れる服貸してってー。

 自分の家みたいにくつろいでる彼女に心底呆れながらシャツを投げてやると、彼女はそれを羽織りながら、わ、ボタン反対についてるー! とかはしゃぎながら、ねねっ、自分のさ、男物の服を女の子が着てるとそそる? えろい? えろい? と、僕をからかいながら笑い転げてて、僕は、ひなってほんと色気ないよなとか言いながら近くのクッションを投げて、彼女は昔好きだったくせによーと、余った袖を振り回しながらふくれっ面で僕の肩あたりを叩いてきた。

 そうやってしばらくじゃれ合ってると隣の部屋から壁をドンッと叩かれて、僕らは必死に笑いを堪えながらしーっ、しーと言い合って、それが何だかおもしろくって彼女はまた笑いそうになって、その度に僕はドンッと口で壁を叩かれる音を真似して、そんなことを最終的に彼女がお願いだからやめてと笑いながら涙を流し始めるまで続けた。

 あ、雨止んでるよ。私花火持ってきたから、ちょうど良いしやりに行こっ。

 彼女が窓の外を見ながらそう言ったのは、とっくに0時を過ぎていた頃だった。一日中降り続いていた小雨はいつの間にか止んでいて、僕らは外へ出て花火をすることにした。夜の公園は暗くて蒸し暑くて、だけど吹く風にはいくぶんか秋らしさが含まれるようになっていた。彼女が買ってきた子供用の花火セットには蝋燭がついていなくって、二人で身体を壁にしながらライターで火をつけて、蒸し暑いけど風は気持ちいいねと僕が言って、もうすぐ秋だね、と彼女が言った。たぶん僕と彼女が考えていることは少し違っていて、だけどそんなこと気にならないくらい花火は綺麗で、その光に照らされた彼女の横顔はもっともっと綺麗だった。

 結局僕たちは雨のせいで少し湿気っていた花火を半分残して部屋へと戻った。しばらく一緒にテレビを見て、着替え持ってきてないから帰ると言う彼女を家の前まで送ってあげて、今日はありがと、と彼女は小さく手を振って家の中へ入っていった。

 部屋に戻って彼女と僕とで散らかしたクッションや空き缶なんかを集めていると、それらに引っ付いていたみたいに残っている僕の服を着ていた彼女やその格好のまま無防備に笑っていた姿が思い出される。彼女がむすっとしながら、でも嬉しそうに言った、昔好きだったくせによーという言葉。もしも。もしも、僕がまだ好きなままってことがバレてしまったら、きっともうこうやって会えないんだろうな、なんとなくそう思って、そんなことを考えると鈍い波が僕の肺の中を少しずつ満たしていくように苦しくなって、誤魔化すように彼女が飲み残した缶チューハイをぐっと飲み干した。

 部屋を一通り片付け終えたあと、やり残した花火のことを思い出してベランダで一本の線香花火に火をつけた。一人でした線香花火は驚くくらいの煙をもくもくと立てて、それはあの日飲んだ熱いコーヒーの湯気みたいで、小さな音を立てて燃える線香花火の控えめな灯りは、あの日二人で見た金木犀の花にそっくりで、僕は思わず苦笑する。

 もうすぐ夏が終わる。彼女のことを好きになって二度目の秋がくる。金木犀の香りが似合う季節。僕のあげた金木犀の香りがする練り香水を今年も彼女がつけてくれるのかは分からないし、何だかんだで気遣い屋のひなのことだ。きっと告白されたことを気に揉んで使わないんだろう。それでも良いと思った。

 今年もあの品の良い喫茶店へ二人で行こう。京都駅から出ている嵐山行きのバスにまた二人で飛び乗って、恥ずかしそうにする彼女に何かの香りがする練り香水をプレゼントして、何かを言おうとする彼女を言いくるめて付けてもらって、それからもう一度勘違いして呆気なく振られるのも悪くないかもしれない。そんな楽しくてみじめな妄想をしながらよしっと自分を奮い立たせようとした時、秋らしさを含んだ風が吹いて、線香花火の火が、じっ、と音を立てて落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

登場人物紹介
僕:知らない人
日奈香:知らない人
壁をドンッと殴った隣人:僕

 

うまく分類する方法しない理由

 今記事のカテゴリ分けですっごく悩んでて。全部未分類ってのも味気ないし、なんつーかそんなブログ取っ付きにくいじゃん。たとえば、他人と友達と恋人と家族が全部一緒くたになっちゃってる人たちがいるとしてさ。自分の家へ帰った時にいきなり電気がついて、知らない奴が部屋の奥からケーキを運んできて、今日お前の誕生日だろ、つって、他の奴らもニヤニヤしながら口々にハッピーバースデー! おめでとー! みたいな。クラッカーがあちこちから鳴る中、見たこともない女が照れながら現れて、来年もずっと一緒に居ようねとか言ってプレゼントをくれたりしてさ、そのプレゼントを開けてみたら、おばあちゃんいつもありがとう、とか書いてんの。でもそいつら、全員赤の他人。未分類ってこんな世界観なわけ。俺、今、これを書きながら怯えきってるよ。怖過ぎる。

 そうじゃなくてもさ、このブログをわざわざ読みに来てくれてる人なんてよっぽど暇を持て余してるか、4G回線に親を殺されてどうしても通信制限に引っ掛かりたい人か、それかあとは俺のことを完全に恋愛対象として見てるってパターンだけじゃんか。実際、一つどころか全部に当てはまってそうな人がチラホラ居るし、そうなると、パケットを浪費することと俺だけが生き甲斐になってる人たちってことで、本来、俺の好きな人の話なんて聞きたくないはずなんですよね。モヤモヤしちゃうから。

 だから自分も含めて、その人が好きなカテゴリの記事だけを集めて読めたら良いななんて思いながら、俺フィクションも書いてたからさ、とりあえずしばらくの間は「記事」「創作」で分けてて。で、ある日急にハッとして、いやいやいや、全く好きな人問題の方が解決してないじゃんって。あわてて「好きな人について」「好きな人じゃないことについて」「創作」に分類し直した。ならまたすげー問題が起こって。

 書いた記事、全部「好きな人について」に分類される。いやー想定外だわー。ほらだってさ、ダラダラと一つの記事に四千字も五千字も書いてたらさ、途中に一つや二つくらい好きな人のこんなところが好きとか、好きな人は寝顔が天使過ぎるに違いないみたいな話が入るわけでしょ? 入るよね? 俺ここからおかしくなってる? 入るんだよ。俺はおかしくない。おかしいのはお前だ。

 で、強引に話を戻すけど、好きな人の話が入ってしまうとそれはもう記事のカテゴリとしては完全に「好きな人について」にしなきゃいけないわけで、事実こうやって書いてる間にもまた一つ「好きな人について」に分類されそうな記事が出来上がってる。

 んーどうしよっか。たとえばじゃあ、その記事の主題が好きな人についてじゃないなら「好きな人じゃないことについて」ってカテゴリに分類する、っつーことにしても、結局そっちでも好きな人の話をしているんだから当初の目的は達成されないわけだし、そもそも俺が世界を測るために使ってる物差しがメートル法じゃなく好きな人法を採用している以上、今日は会社の同僚と近くの有名なパスタ店へ行きました(^o^) でも、何だか味気ないなって思ってたら、そっか、足りなかったんだ、好きな人の笑顔っつー名のスパイスが……。みたいなさ、全てがそういうテイストになっちゃうもんだから、「好きな人じゃないことについて」なんてカテゴリに分類される記事は本来あり得ないんだよ。

 まあこんなの全部まとめて「妄言」にでも分類しとけば解決するんだろうけど、いくらなんでもそれは悲しい。いつか好きな人との間に子どもができて、その子どもがこのブログを読んだ時、自分の父親が書いた「妄言」にカテゴライズされた母親との恋物語を読んだらどんな気持ちになるんだろうって考えてみたんだけど、そんなの爆発じゃんか。普通に父親のブログを見つけた時点で終わりなのに、それが「妄言」ならもうそれは爆発じゃん。なんか名言みたいになったけど。妄言は爆発だ、みたいな感じになっちゃったけど。

 そんなこんなでどうしようどうしようつってしばらく悩んでたんだけど、よしもうこんな時は他人の知恵を借りるに限るなと、会社の同僚を飯に誘って上記の内容をそのまま相談してみました。したっけその同僚、何故か苦虫を噛み潰したような顔してたよね。

 俺それ見てびっくりしちゃって、え、大丈夫? ちょっとすみませんー! この料理苦虫入ってるんですけどー! って店員にクレームを入れたりしてたんだけど、結局その同僚は、うーん、まあなんだろ、たとえば、好きな人の部位ごとに……、って絞り出すように言った。

 んなことあり得るのかよっつー。どこのブログがカテゴリを「顔」とか「脚」みたいにしてんだよ。そんなのエクゾディアが更新してるブログだけじゃん。ねーけど。俺、こんなことを本当にわざわざ書きたくないんだけど、エクゾディアが更新してるブログなんてものはないんだよ。そもそもこのブログを読んでる人たちが、今日は久し振りに口元を褒めてる記事を読みたいなー、あっそうだ、この「顔」カテゴリから……おっ、発見! これすごく便利だなー! ってなるわけなくない? 仮に読者の間ではそうなってるとしたら、それは俺、もう、ブログを辞めるわ。未分類の時より断然怖え状況だし。まあだから、結局名案も浮かばないまま、今まで通りとりあえず「好きな人について」「好きな人じゃないことについて」「創作」の三つを置いて、その時自分が書きたいことの主題がなんだったのかで分類することにしたんだけど、何か他に良い案があったら教えてください。

 そういえばこの同僚とご飯を食べてる時、好きなタイプは? みたいな話になって、そいつは、優しい人が好きカナ……? みたいなことを言ってたんだけどさ、この答えってマジで意味がなくない? その受け答えをされても俺は少しもその人の好きなタイプの理解へ近付けないわけじゃん。へー! なるほど! 優しくない人はタイプじゃないんですね! つって。意外だねー、優しい人かー、たとえば、えっと、陛下? みたいな。いや、あの、申し訳ないけど、優しい人が好きなのは全員だよ。

 物理学や化学の世界では「無視可能性」つー、それがあまりにも小さな確率だったり、稀な例外だった場合には、その可能性を無視しても構わないって言葉があるんだけど、優しくない人が好きなんてパターンは、まさに無視可能性つーことで、初めから考慮なんかしてないわけじゃん。私、徹底的に折檻されないとダメなんです、だから優しくない人が好き、みたいな、そんなパターンはそもそもこっちの選択肢にもないわけで。

 何もそんなに怒らなくっても、みたいに思われるかもだけど、ほんとみんなにはちゃんと考えて欲しくってさ、好きなタイプは? うーん優しい人かな、つーやり取りで浪費された十秒間で何が出来ると思う? 言っておきますけど、十秒もあればおっぱいを揉んだ後にありがとうってお礼を言えますからね。そうなんです、今ハッとした顔をしてる人たちはもう気付いたんだろうけど、これはただ他人の十秒間を無駄にしたっつーだけの話じゃなくて、おっぱいを人から奪ったんだよ。言わば「おっぱい可能性」を奪ったの。言わば、とかいってうまいことまとめようとしたけど別にうまくなかったし、こんなところに話が着陸すると思ってなくて俺もびっくりしてるんだけど、みんな話について来れてる? 無理そう? 俺もそろそろ無理だよ。大丈夫、君は独りじゃない。

 いや、これがね、たとえば好きなタイプがイケメンだったら分かるの。たしかにイケメンもみんなが好きなんだけどさ、あえて一番にそれを持ってくるってことは、私は他の人よりも顔面を評価しますよっつー意思表示なわけじゃん。他が多少あれでも顔がかなりイケメンなら全然好きになりますよっていうさ。けど優しい人が好きって言ってる人らは、その人が他の女に優しくしてたら不機嫌になるじゃん。ちょっとでも優しくしたら不機嫌になるのに、たとえば何々ちゃんが終電なくしちゃったから俺んちに泊めてあげたんだーつーかなり優しい人だった場合、それはもう爆発なわけじゃん。また爆発したわ。妄言と優しさは爆発って曲、B'zになかった?

 本当にそれが好きなタイプなら、それが誰に向けられたものでもプラス評価になるはずで、実際イケメンが好きな人は、別にそのイケメンが他の人に対してイケメンでも怒らないじゃん、だってそこが好きなところなんだから。要するに自分だけ特別扱いされたいって話なんだろうけど、それは優しさじゃなくて普通に下心だよ。性欲を燃料にして動くやつだよ。

 あ、好きな人がタイプ、みたいなことを言ってる人らは、この段階にも達してない完全に終わってる人たちですからね。なんかいかにもこれが真理っしょ、みたいな顔してっけど、そもそも会話ができてないタイプだから。

タイプ(英:type)[名](スル)

1 型。型式。「古いタイプの機械」

2 ものごとを何らかの基準で分類して、その共通する特性をとりだした型。

        (出典:デジタル大辞泉)

 つまりこれって、異性を何らかの基準で分類した時に、あなたが好きになる異性に共通する特性や傾向は? って問いなわけで、それに対して「好きな人」って答えるのは、病院なら普通に国民健康保険が効くタイプのやつじゃん。治療費が三割負担で済むやつの答えじゃんか。今どれくらいあり得ないことが起こってるか分かります? 記事を何らかの基準で分類した時に、あなたが書いた記事に共通する特性や傾向は? って問いに対して、「記事」って答えてた人に馬鹿にされてるんだよ? 大丈夫?

ミヤタという女

 頭の中にいる天使と悪魔が俺の恋愛にいちいち口を挟んでくる。好きな人のことを好きでい続ければ必ず結ばれますよ、と天使が優しい微笑みを浮かべながら言って、俺は、うんうんありがとう、そうだよな。惚れちゃった俺が頑張らなきゃ誰が頑張んだよな、って相変わらず今日も脈一つない好きな人に必死に心臓マッサージをしながら、でも心電図はずっとフラットなままで、はあ〜ってたまにため息をついたりする。

 そんな時には決まって悪魔がぼわわわんと横から現れて、おいおいそいつはもう死んじゃってるよ。そいつより可愛かったり優しいやつなんていくらでも周りに居るじゃねーか。でもそいつらじゃダメなんだろ、ならため息なんてついてねーでシャキッとしろ、なんて耳元で囁いてきて、オーケーオーケー、お前らグルってわけね、ちくしょーってまた心臓マッサージを再開する。

 正直さ、完全に飽きてはきてる。片思いって状況そのものに。最初の頃とかはさ、おい! 目を覚ませよ! 勝手に死ぬなんてぜってー許さねーぞ! くそっ! くそっ! とか言いながら救命病棟さながらの心臓マッサージをしててさ、視聴者もそのシーンを見ながら手に汗握って、お願い、生き返って、なんて思って、そのドラマチックな展開にドキドキしながら固唾を呑んで見守ってたんだと思うのね。そっから半年、ずっとそのシーン。このドラマ。いや、ほんと俺が不甲斐ないばっかりに、かれこれ通算二クールも心臓マッサージしてる。次回予告もずっと心臓マッサージのシーン。

 途中一回、知らない人がAEDみたいな機械を運んできて、俺すら状況が分かんないまま、離れて! ショック与えます! ドンッ! みたいなシーンがあって、それが終わった後、その知らない人は満足げに頷きながら帰ってって、あれ、これまさか心臓動いたんじゃね、つっておずおずと近付いてみたらやっぱり全然動いてなくて、じゃあ何だったんだよ今のヤツみたいな。周りにいるナースとかも、えっと、どうしましょうかみたいな顔してるし、俺も、あー、じゃあ、とりあえず心臓マッサージ戻りましょうかつって。祝! 三クール目決定! って。アホの番組かよ。

 でもさ。自分でもなんなのかわかんないんだけど、好きなことが当たり前になっちゃってんだよね。ラインしたら返ってきて、電話かけたら出てくれて、その度にすっげー笑ってくれて、はやく会いたいねつってくれて、好きって言ったらたまに好きって返してくれて、そういうのが日常になっちゃってんの。旅行した時の写真を送った時もさ、すっごい綺麗つってくれて、そう、すっごい綺麗だったのよほんと。実際に俺が見た景色ってほんとにほんとに凄くって、でも写真だとちっちゃいのがぽつーんって写ってるだけみたいになってて、でも好きな人はそれをすっごい綺麗って言ってくれて、そんなの興味なさそうじゃんお前、なのに、あーなんでそんなに伝わっちゃってんのーって。そういう日々の瞬間が日常になっちゃってる。

 なんだっけ、今週のはてなお題。「もしも魔法が使えたら?」だよね。俺ね、ホイミを使えるようになりたい。そんな日常にたまーに疲れたり虚しくなりそうになった時、自分にホイミをかけて回復して、元気いっぱいMPいっぱいを体力に注ぎ込んで、希望も期待もなくただ心臓マッサージを楽しめる状態を維持してたい。

 なんか途中から俺、生き返って欲しいとか振り向いて欲しいみたいなのから、自分がばかすかマッサージしてるもんだから手の感覚がおかしくなっちゃって、自分の心臓マッサージで起きた振動に、あ! 今脈あったくない!? 実は心臓動いてるんじゃないの!? って因果を取り違えて錯覚してた節がある。待ちの姿勢になってた。おかしくない? 片思いしてる側なのにさ。まず俺は相手には脈がないってことをちゃんと受け入れないと、いつまで経っても片思いなんか始まらんないわけで。俺の好きな人は俺の知らないところで、俺の知らない欲望にもとづいて、ちゃんと日々反省と改善を繰り返して生きてる人間なんだから、俺はそれをちゃんと尊重しなきゃならない。あの、ところでさ、全然話変わんだけど、旅行の写真あげたじゃん。で、お前最近髪を編んでるらしいじゃん。代わりにその写真くれない? ダメ? ダメなんだ、ふーん。

 あ、そういえば一昨日、以前の日記にチラッと出てきたミヤタと、振られた腹いせに飯を食べに行った。腹いせは、まあ、冗談だけど。なんかその日は午前中だけ会社の会議があって、ミヤタは結構ギリギリの時間にばたばたと眠たそうな顔で会議室へ入ってきたんだけど、ミヤタといえば少し前に告白されて以来、仕事の昼休憩の時にたまたま一緒になって飯を食うとかそんなのを除いたら、配属先も変わってほとんど会うこともなくなって、ラインのやり取りとかもそれから数回程度。まあ、ミヤタのことを狙ってるっつー同僚の話を聞いてたり、ミヤタ自身も上司からセクハラを受けて左手がうまいこと動かなくなって仕事を休んだりと毎日楽しそうにしてたもんだから、用事がある時しか俺からは送らなかったし相手からも特に用事がないと連絡はこなかった。ま、そりゃそうか。

 でも別にそのことでお互いに気まずくなったりとか避け合ってるって感じでもなかったから、すれ違う人すれ違う人に、え! やばっ! 久し振りー! あ、ちょっと待ってここから髪出てるよ、動かないでね、あれ、これ髪留めなんだ、おっ、なになに君も久し振り、いつ以来だっけ? え、うそ、今週? あ、そっか、みんなバーベキューで会ったんだった、あははとか愛想を振りまきながら寝ぼけてるミヤタを近くから眺めて笑ってたし、それに気付いたミヤタも俺の方へ近付いてきて、おはよー、よこ座っていい? あ、でも、うち、夜勤明けでそのまま来たからあんまり近くには寄らないでね、くさかったら嫌だし、くさくないけどなんて笑いながら普通に話しかけてきた。

 どうぞどうぞつって始業までの時間、この間行った筋だらけの肉を出す焼肉屋でミヤタが口いっぱいの肉を頬張って、はふへて(助けて)……と二、三十分もぐもぐもぐもぐしてた時の話で、あれやばかったよね、うちローファー食べてるのかと思ったもん、とか話して笑ってたり、その時俺が飲んでた爽健美茶を見て、えー爽健美茶はないよ、一番好きなお茶ってなに? 爽健美茶に決まってんじゃん、えっ信じらんない絶対に生茶だから、とか言っておきながら、でもミヤタのカバンから出てきたのは伊右衛門で、ちょっと今出てこないでー! とか言ってるのを見て、二人で涙が出そうになるくらい笑ったりしてた。

 そんなこんなで昼休憩、ところで好きな人とどうなったのって訊かれて、あっその話なんだけどね、って俺が好きな人との経緯をこうこうこうでって説明したら、それもう完全に振られてんじゃんーとか笑われながら、いや、俺諦めてないからなとか言ったら、うちも諦めてないよみたいなことをさらっと言われて、うわひっどー今の顔もっかいしてみて、絶対相手の子も同じ顔してると思うよみたいな、ばかやろー大喜びでしょつって、でも実際どれくらい好きなの、もうそろそろ半年くらいになるなーみたいなそんな話をしながら一緒に昼ご飯を食べた。

 最近好きな人の話になると、実は俺、今まで黙ってたんだけどクルタ人だから、眼が深い緋色に染まって、失恋は全く怖くない、一番恐れるのはこの気持ちがやがて風化してしまわないかということだ、みたいな絶対時間(エンペラータイム)に入っちゃうんだけど、そんな様子の俺のことなんて全く意に介さないミヤタには、じゃあうちらが初めて飲みに行った時にはもう好きだったんだねーとかさらっと話を戻されて、うわ、そっか、ほんとだねって、俺の眼の色も元に戻って。

 ミヤタと初めて飲みに行った日ってさ、すげー覚えてるくらい強烈で、これ確かツイッターとかでも書いたんだけど、ミヤタは飲みながらずっと年明けの連休を使って友だちと行く旅行の宿をスマホで探してて、ああでもないこうでもないって悩みながらやっと決めて、あっうちTポイントカード持ってないから今持ってたら宿のポイントつけられるよ、なんて言ってくれて、まじかよミヤタ良いやつだななんて話しながらTポイントカードを渡したら、へっへっ入ってるポイント全部使っちゃおとか言いながらポイントを使われた。初めて飲んだ日に。ヤバイだろこいつ。

 その日って十二月にしては暖かくて、朝起きた時に、俺っち完全に冬の寒さに慣れちゃったみたいだわ〜なんて自慢げに言ってて、家族からそれは今日が暖かい日だからだよ、ちょっと難しかったかな、なんて優しく諭されながら家を出たんだけど、そんなことも忘れて飲んだ居酒屋の帰り道、ミヤタがいきなり、あれ? うち冬に慣れたかも、とか同じようなことを言って、笑い転げながらだよねだよねつって、そんなことがあって絶対にコイツとは仲良くなれるなと思った。

 あーでもそっか、あれからもう半年なのかーって。長かったようなあっという間だったような、うん、たしかにあの時にはもう俺、好きな人のこと好きになってた、なんてちょっと一人誇らしい気分になりながら、……ああそうだな、みたいな、こう舌で頬の内側をグリグリしながら格好付けてたら、横でミヤタは、そんなことよりさ、うちほんとに臭くない? 大丈夫? ってのんきに自分の心配してた。ミヤタ、ブレない女。

 会議が終わったあと、せっかく天満橋まで出てきたんだからぶらぶらしてから帰るわつって、ミヤタもミヤタで終業後もなかなか帰らないで喋る女子グループに混ざりにいくっぽくて、じゃあまた、ちゃんと風呂入って寝ろよーなんて言いながらそこで別れて、俺は同期の男たちと近くにあった快活倶楽部へ行って、しばらくした頃にミヤタからまだ近くいるー? みたいな連絡が来た。

 それで時間が合いそうな感じなら一緒に帰るかって話になって結局合流、まだ早いし、失恋を祝してご飯行こ! つーミヤタに風呂入らなくて良いのかよみたいなことを言いながら、昨日21時くらいにお風呂に入ったからそれまでは完全にセーフ、21時を越えると魔法が解けて途端に臭くなるけどって、最悪なシンデレラみたいな設定を聞きながら一緒に歩いた。

 その途中、ご飯の前に服だけ買いに行きたいから付き合ってと連れてかれた京阪のシティモールで、ほんとにここって何も無いじゃんとか文句言うミヤタが最終的にINDIVIでフレンチスリーブのニットを一着買って、そのまま買ったばかりの服に着替えて出てきた。ああなるほど、それなりに本気でくさくないか気にしてたんだ、あと、お前、おっぱいそんなあったんだ、みたいな。

 そのまま天満橋駅のすぐ近く、大阪キャッスルホテル内にある錦城閣という中華料理店へ入った。ここって酢豚と大学芋がかなり美味しくて、麻婆豆腐はそれなり、他はダメダメ。だけどタバコが吸えるところで俺は何回か行ったことがあった。ミヤタは酢豚と悩みながら結局杏仁豆腐を頼んで、そしたらちょっとした財産くらいの量の杏仁豆腐が出てきて二人で大笑いして、ミヤタは目をキラキラさせながらそれを美味しい美味しいと食べ進めてたんだけど、最後は無表情でゆっくりと杏仁豆腐をかき混ぜるだけになってって、これってほんとはみんなで食べるやつなんでしょ? みんなしてうちを笑ってるんでしょ? と人間不信気味になってて、それを見て俺が笑ってミヤタもつられて笑った。

 その後場所を移して軽く何杯かお酒を飲んで、けどお腹はいっぱいだったしさすがにミヤタもお酒を飲んですぐ眠たそうにし始めたから、結局魔法が解けてしまう前に解散した。久し振りに随分と楽しかった。遊んだってほどでもないくらい短い時間だったけど、俺、好きな人に怒られて不安だって言われた日から女と遊ぶみたいなことってなんとなくしてなくて、大人数でとか飲み会でとかはあってもとにかく極力極力控えるようにしててさ。これからもたぶんそうするんだろうけど、やっぱり自分に好意を寄せてくれる人と遊ぶのってそれなりにドキドキするし、可愛くておっぱいの大きい子と一緒に居るのは良い。そうじゃなくても気の合う人と会うのって単純に楽しい。うん。楽しかった。でもさー。

 

 やっぱさーーーーーーーーーー全然さーーーーーーーーーーダメなのーーーーーーーーーもーーーーーーーーーーーーあほーーーーーーーーーーー。

 

 楽しいことが起こる度、そこでの好きな人の気配の希薄さに後から気付いて、目眩がするくらいの取り留めなさを感じてしまう。だから、そうであるから、どれだけそれ以外が楽しくっても家へ帰ると俺はまた心臓マッサージを黙々と始めるし、そうやってる自分が全然嫌いじゃない。正直かなり好きだし心地良いと思ってる。だから救えない。ホイミなんて使えないけど、代わりに覚えたペース配分という名の魔法を駆使しながら、たまに俺はお前が好きだと宣言しちゃいながら、堂々の三クール目を迎えちゃう。主演は俺でヒロインがお前。演者の変更はなし。天使と悪魔が耳元で囁く声をメトロノーム代わりに、今日も心臓マッサージをする。

サンタクロース・ダンス

 サンタクロースの正体を知っちゃったのって、たしか俺はまだ小学校低学年くらいで、たぶん同級生の誰かから、とある情報筋によるとサンタクロースってどうやら結構近くにいるらしいぜ、俺は親が怪しいって睨んでる、つーことを教えられた時で、うわそっかーって。俺、てっきりサンタクロースって全世界の子供たちにプレゼントを配ってあげてるんだと思ってて、俺よりももっともっと貧しくて、苦しい暮らしをしているアフリカとかの子供たちも普段すっげえつらいけど、一年に一度くらいはごちそうやプレゼントを貰えるからそれを楽しみに一年間頑張ってんだろうなって。でも俺のお父さんがサンタクロースなんだったらそっか、その子たちは最初っから何も貰えてなかったんだ、サンタさん、一度も来てなかったんだ、ってこっそり泣いた。

 俺の根っこの部分ってこの時流した涙の純粋さそのままなんだよね。心が綺麗過ぎるの。今まで色んなところで俺の心の優しさについては訴えてきているのに、俺が心優しい純粋な人と考えてくれている人は少なくて、今のところ、俺を含めて一人しかいない。せめてさ、せめて好きな人にくらいは、ちょっとくらい伝わって欲しいとか思ってるんだけど、その、一番初めの日記を読んでもらったらわかるように、ちょいとばかし誤解されてる的な、まあ誤解つーか正解なんだけど、とにかく、そりゃ不安にもなるよねーつことで、同じ理由で振られっぱなし。

 はいはい、なるほどね。了解了解。そっちがその気なら俺にもやり方ってもんがあるつーことで、俺、この度、根本的に計画を見直すことにしました。これは恋とか片思いとかそんな可愛らしい女子供がするようなもんじゃなくて、もうあれだ。根比べ。俺がお前を好きなまま諦めるのが先か、お前が不安なまま俺と付き合うのが先か、どっちが先に折れるかの戦い。負けねーかんな。俺はお前の不安なんて吹き飛ばしちゃうくらい好きで好きで好きでい続けてやるし、お前は俺が虚しくなるくらい色んなネガティブな可能性を考えて考えて存分に不安になってくれ。一個一個潰してやる。おい、ちゃんと聞いてっか。これ読んでっか。んで、もし寿命までに勝敗がつかなかった時は、矛盾の故事成語として未来の教科書に載ろうぜ、二人でさ。

  それかもういっそ、付き合えないなら世界の観測者みたいな存在になるのもありかもしんない。お互い折れないままいずれ好きな人が彼氏と結婚してさ、ハチャメチャに可愛らしい子供が産まれたとして、その子どももまた別の人と結婚して、好きな人の遺伝子がこう、ネズミ算式に増えてって、徐々に世界へ浸透していく過程を、そのくるまれた世界を、見守る概念みたいな存在になりたい。で、そのうちの一人でも傷付けられそうになったら、空間から出てくるの。そんで傷付けた相手を元居た空間に引きずり込む。それくらいのスケール感でいっから。なんか、ある有名な歌人が「予定より少し遅れはしたけれど 実現可能な幸せがある」つー素敵な短歌を詠んでて、今それをふと思い出しながら、そういえば誰の短歌だっけって検索したら自分が詠んだ歌だったからひっくり返っちゃったんだけど、とにかく俺は、そんな感じで予定より遅くなることを織り込んだ作戦へ変更しようかなって。なんかこれまで、北風よろしくびゅーびゅー吹きまくっててさ、イソップさんの言う通り、もしかすると好きな人は厚着厚着みたいな、前のボタンなんかも上までバッチリ閉めちゃってたのかもしんない。まさか人生23年目にしてまだイソップ寓話から学ぶなんて思いもしなかったけど、こう、太陽のように俺の愛の熱量をもってして、好きな人が自ら服を脱いじゃうみたいな、そんなニュアンスで。結局同じじゃん、って感じなんだけど。

  こうやってさ、誰に宛てるわけでもない、好きな人が読むわけでもないような宣言を書きながら思うんだけど、俺、やっぱり文章を書くことが好きだ。自分の書いた文章って大好きだし、こうやってくだんねーことをだらだら書く行為そのものが本当に好きだ。キーボードを叩く度に増えてく文字を見るのが好き。誰かに読んでほしいとかそんな段階の前に、自分の中に表現しきれない気持ちがまだまだあって、書き足りないという渇欲があって、今日もこうやって好きな人について書けてるってことがたまらなく嬉しい。頭の中でぬちゃちゃんってなって沈殿してるものが、少しずつ少しずつ形になってって、パーマンバッジみたいに俺を強くしてくれる。全然書ききれることはないしピッタリの言葉なんて見つかるわけもないけど、ああでもないこうでもないって言葉を探す過程の中で、感情と語彙の相対数の限界を好きな人で感じることができる。自分が自覚的に好きだと認識できてる部分なんて、全体から見るとほんのちょっとなんだって勇気をもらえる。

 ほんとよかった、文才も語彙力もなくて。小学校の頃、夏休みの宿題の日記作文が本当に嫌いで何を書けば良いのかわからなくって、最終日に「ぼくは日記の宿題があまり好きじゃなくて途中で花火をしたり旅行した時もまあいいっかと思って放っておいたら、もうすぐ新学期が始まってしまうことに気付いて、あわてて今、書いています。でも今日は日記を書く日だと決めていたので、友だちとも遊べずにただ日記を書いてるだけで終わりそうです。悲しいです」みたいな、〈日記を書く〉という出来事を日記に書いてたようなセンスもやる気もなかった俺が、今は誰に頼まれたわけでもないのに、その何倍もの量をうきうきしながら書いてる。ほんとオススメ。みんなも一回くらい思いつくまま書いてみない? 好きな人とか彼氏とか彼女とか、別に人じゃなくっても好きなものとか場所だとか。文章じゃなくても、絵を描ける人は絵でもいいし、曲を作れる人は歌でもいい、なんならダンスが好きなら踊っちゃってもいいと思う。そんでもって下手くそでもいいから俺に見せてくれ。ダンスはYouTubeに上げてくれ。Goodボタンいっぱい押す。

 そうやってみんなで自分の気持ちを再確認して、その大きさにびっくりし合って、好きなものをもっともっと好きになって、胸にパーマンバッジを付けて最強になんてなっちゃったりして、いつかサンタクロースがごちそうとプレゼントを持ってきてくれる日を気長に待ってようぜ。幸い、近くにサンタクロースって居るみたいだし。

最後の桜が散るまでに

 「あの、よろしくおねがいします」

 小さくおじぎをした彼女が少し緊張していたのを覚えている。大学の後輩で、誰かにくっついて、知らない人ばかりの僕らの飲み会にきてくれた子だった。

 桜の季節ど真ん中、出会いの春なんてかこつけて失恋したばかりで傷心中の僕のもとに知っている子と知らない子が10人くらい、特に桜を見るわけでもなく、ただいつもみたいに僕の家に集まって、みんな好き勝手していいからねーなんて仕切る人に、ここの家主は俺だからなんて笑って、まあいつもの、特に何の変哲もない日だった。

 花見行きたいなー、でも今から行っても場所なんか空いてないよねーなんて、そんな話を一人の友達としながらちょうど空になった缶ビールを潰して、何気なくスマホを取り出した時にベッドの上に座って飲んでいた別の女友達からいきなり話しかけられた。

「それ、あんたのスマホの画面割れすぎだって。ちょっとやばくない? ちゃんと直しなよ」

 たしかに僕が持っていたスマホの画面はかなり割れていて、でも使えるからまあいいか、最新機種だから修理とか高そうだし、とか思いながらも、まあでも直すべきだよなってそんな気もした。僕はそんなことあまり気にしてなかったけど、言われてみるとまあ、そうかな、みたいな。

「そうなんだけどね。すぐまた割っちゃいそうだしさ」

 とりあえず冷蔵庫から新しい缶ビールをとるためによっこらしょっと立ち上がって、げっ、もうビールないじゃんとか言いながら、ほろよいを取り出してぼんやり飲んでいると、初めに小さくおじぎをした子がそそそっと僕のそばに来て、自分のスマホを見せてきて「私の、も。も? かな? 割れちゃってる疑いありです」と、元気出してねみたいな感じでにこってして、わざわざそんなこと言いに来てくれたの? ありがとうって思わず俺も笑っちゃって、実はもう一つあるんですけど、

「私、缶ビール苦手で、あの、なかなか減らないんで、そのほろよいと交換してください」と恥ずかしそうに言った。

 一通り笑い転げた後にどうぞどうぞありがとうってお互いの缶を交換して、じゃあ改めて乾杯ねって、缶はかちんと鳴って、僕は一発でこの子のことが好きになった。そんな風な出会いがあって、僕はとても自然に彼女の行動や仕草に可愛らしさを感じたし、彼女はまるで僕になつくように連絡をくれるようになった。

 それから彼女とはたびたび遊びに出掛けるようになって、そんな時、僕はいつも彼女の左手側にいて、彼女は僕の右手側にいた。右利きの僕と、左利きの彼女とはそうすることで強く、固く結びつくように思った。少なくとも、その頃の僕はそう感じていたし、少しも疑うことはなかった。僕は何度か彼女の左手を握ったし、そして彼女はたまにその手を握り返してくれた。僕はそれが嬉しくて彼女の顔を覗き込み、すると彼女もつられてこっちを見る。幸せだった。付き合おうとかそんなことは口に出さず、代わりに僕は彼女に「ずっと一緒にいようね」と何度も言って、そのたびに彼女は不思議そうに、うん、と頷いた。

 前の彼女にこっぴどく振られて、恋愛とか付き合うみたいなことが信じられなくなっていて、これ以上傷つきたくなくて、僕は彼女の気持ちに気付きながらも鈍感な振りをし続けて、もう少しだけこのぬるま湯のような関係が続くように、そうやって時間を引き延ばして引き延ばして、甘え続けていた。

 僕と彼女は僕の小さな部屋に居る時も、いつも隣りあわせでベッドを背もたれにして座った。足を投げ出して、真ん中には灰皿があって、そしておそろいのマルボロライトと一つの淡いブルーのジッポ。そこが僕らの定位置だった。僕の右側に彼女、彼女の左側に僕。そうやっていると彼女の顔を直接見ないで済んだし、彼女のことを正面から考えることを先延ばしにしていられると、そんな風に思っていた。

 彼女は何度か僕に料理を作ってくれた。パスタが好きな僕の要望に応えようと一生懸命に食材を選び、そこにひとひねりの彼女らしさを織り交ぜて、僕が好きなにんにくがきいたスパゲッティを作ってくれた。彼女の手はそんな時いつもにんにくの匂いがして、彼女の髪の毛はいつもあたたかな匂いがした。それは大人の女の香りとは違ったし、かと言って、小さなこどもの匂いでもなかった。「おひさまだよ。おひさま」彼女はそういって笑って、そして指にくんくんと鼻を近づけ「今日もにんにくの匂いだ」と言った。僕は彼女の髪の毛の匂いも、にんにくの匂いがする少ししめった手も大好きだった。

 大きな皿にパスタを盛り、テーブルの上においてくれる。僕が先に一口ほおばり、彼女はキッチンで「どーですかー」と言う。

 僕は彼女のそばまで行って、そして耳元で、やや元気よく、すっごくおいしい、と言った。

「やったー!」

 両の手でピースして、そのピースをぐにぐにと曲げながら僕らは笑いあった。そしてまた隣り合わせて座ってフォークを握り、元気よく同じタイミングでお皿へとフォークを伸ばした。

 僕の右手と彼女の左手は何度もぶつかる。

「あっ逆に座ったほうがよかったですね。手が」彼女はそう言った。

 うーん、このままでいいや。

 もう少し。もう少しだけこうしてたい。結局僕がその時何を考えているかなんて彼女はよくわかってなかっただろうし、僕も彼女が大切にすることをわかってなかったのかもしれない。その頃のことをどう思い返しても、どんな場面を切り取ってみても、彼女はいつも笑っていて、器から溢れてしまいそうな温かな冬の日の張り湯みたいな、こぼれてしまいそうな笑顔しか浮かんでこない。

 僕は絶対とかずっとみたいな言葉をよく使った。そんなものありえないってことくらいもちろん僕も知っていたし、だからこそこんなあいまいな関係には相応しいと思った。バランスをとっていた。あるいは、せめて強い言葉で自分を慰めたかっただけなのかもしれない。僕は普段から使う言葉で彼女と接することができなかった。

 僕らはいつでも隣り合わせだった。しっかりと手をつなぎ、僕は自分の手に汗を感じ、そして彼女の手にもそれを感じた。 僕たちは同じ景色を見ていた。しっかりと、離さないように握った彼女の手の体温を頼りに僕は歩いた。

 僕があんまり強く彼女の手を握っていたから、一緒に見ていた同じはずの景色に、僕たち自身は映らなかった。僕たちは鏡に映った自分と相手を、自分自身と相手自身だと思っていたのかもしれない。鏡の中の僕は少しいびつな冷静さで彼女を守ろうとしていたし、鏡の中の彼女は照れながら、まだ自分の魅力に気づくことができずにいたのかもしれない。

 腕の中に抱きしめたときでさえ、僕は手を離すことはなかった。僕の胸の中でこぼした彼女の涙に気づかないまま、つないだ手のひらと手のひらをとても幸せに、抱いたちいさな両の肩をひどく愛おしく感じた。とても悲しいことだけど、身体を重ねることは彼女にとって、身体に触れる僕の腕は彼女の意識にとってはぬくもりよりも冷たくて、彼女の意識の外にある身体にとっては熱すぎる、他人の自分勝手な欲望そのものだった。

 あの夜も、僕が強く抱きしめていたあの夜でさえも、彼女は本当は独りぼっちだった。そして彼女は疲れてしまっていた。いろいろなことに、ひどく。たくさんのことに、ふかく。一番そばにいたはずの僕は、彼女のことを守れなかった。気付こうとさえしなかった。僕はただ彼女のことを欲していた。欲しがるばかりだった。

「もう、会えません」

 送っていった桜ヶ丘の駅で、僕が聞いたその声はいつもと同じ少し鼻にかかった幼い声で、いつものちいさなえくぼを見せた、それでもきっとそれは精一杯の笑顔で、大きな瞳には涙をいっぱいにためていて、そこにははじめて僕が、自分のことばかり考えている僕が映っていた。

「あなたがどうしたいのか、わからないです」

 春の花は強く咲きこぼれ、雨を待たずして散ってしまった。その花の淡い花芯は、静かにひっそりと涙を流し、そして、目の前から消えてなくなってしまった。最後に見た笑顔が、悲しいはずの散り際の花が、一番きれいだった。そんなこと言わないで、ほら、ずっと、さ。

「こんな関係なら、ずっとなんか、続かないです」

 彼女は、本当に真正面から僕の言葉を受け止めてくれていて、だけど僕が彼女にかけた言葉たちは、そうやって受け止めるにはあまりにも重すぎて、ぼろぼろになった手と心で、それでも彼女は最後まで待ってくれていた。どうして。どうして、なら、ずっと笑顔で居たのさ。あんな言葉を真に受けるほうがおかしいよ。ほんとにずっとってあると思ってるの? 僕にはもう、彼女を傷つけることでしか、自分を確かめることが、慰めることができなくなっていた。

「私はずっとってちゃんとあると思ってるよ」

 それでも彼女は、これだけ傷つけられてもなお純粋なままで。優しくて。強くて。だから。

 もうきっと会えないけれど、きっと、幸せになっていく彼女。幼くて可愛い彼女が、きれいになっていくのが切なくてせつなくて、だから。彼女の言う通りにお別れしよう。これっきりにしよう。

「最後にキスだけしてくれませんか」

 笑いながらそう言った彼女の手を、やっぱり僕は自分から離すことはできなかったけれど、それでも彼女のことを初めて正面から見れたような気がした。もう何もかも遅いけど、正面から見た彼女の顔は、思い出の中の、僕だけの想像の中に居た横顔じゃなくて、それでも想像していたよりもずっと美しかった。

「実はこれ、ファーストキスですから」

 唇を離したあとに彼女が小さな声で言ったその言葉の意味を、今はもう確かめるすべがない。僕たちの手は確かに離れ離れになって、彼女は僕からはもうどれだけ手を伸ばしても届かないところへ行ってしまった。

 きれいになってゆく彼女のことを、幸せになってゆく彼女のことを、二度と聞くことのできないあの笑い声と、もう二度と見ることのできない笑顔を、大きな瞳を、くっきり浮かぶちいさなえくぼを、いっつも弛んでいた可憐な唇を、まっしろで折れちゃいそうな肩を、彼女を、ほんとうの気持ちを、僕は知ることも無かった。僕は何も見ていなかった。

 難しいことじゃなかったのだ。信じればよかった。ただ、正面から抱きしめて、それから歩いていけばよかった。幸せにしてあげたかった。できることなら僕の手で。そうなってほしかった。

 雨の降る日、桜ヶ丘の商店街にはあの時と同じようにぽつりぽつりと明りが灯りだして、隣の八百屋に張り合うように野菜ばっかり並ぶスーパーの前を、ペットボトルばかりがうんざりするほど並ぶもうひとつのスーパーの前を、ひどく薄くピザを焼くレストランの前を、水みたいなカレーを出す洋食屋の前を、ビールやワインを買った酒屋の前を、友達と同じ名前の靴屋の前を、強く走った。息が詰まるほど、声にならないほど、涙を流しながら、僕は走った。他にはそうするしかなかった。 

 桜ヶ丘の町の隅々が、いちいちが、僕に何かを思い出させて、僕はその都度女々しく胸を痛めた。それでも、もう、僕にはそうするしか思い付けなかった。彼女と初めて出会った僕の部屋、彼女が割れたスマホを見せてきて笑いかけてくれたあの部屋、いつも隣り合わせで座った僕たちの定位置へ、今すぐにでも戻らなければならないような気がした。それ以外にはもう、辻褄を合わせる方法がなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一回のつもりが二回もヌいた。(感情が高ぶっていたので)