ビキニ環礁シンジケート

書くことが楽しい

蛇の道は蛇なのじゃ

  あの、少し前に活字中毒・文章フェチを自称している某有名ブロガーが、文章とはかくあるべし、みたいなことを流行りの質問サイトで語っていて、なんつーのかな、別にその人の”文章論”に口出ししたり批判するつもりはないんだけど、うーん、とね、お手本としてその人が書いていた文章がさ、こうあまりに、ね、いやこれはちょっとひどいぞ、と。

  けどこれはあの、勘違いだけはして欲しくないから初めに言っておくけど、俺の意見じゃないですよ。俺はそんなこと全く思わなかったし、すっごいなーって、ただそれだけ。さすが活字フェチを自称するだけのことはあるなぁ、つって、いや、これは、皮肉とかじゃなくって、とても澄んだ目で。澄んだ目で呟いた。

  ましてやほら、俺も文章がうまいとかそんなこと全くないし、たとえばワードでブログの下書きをすると文章のほぼ全てに赤と青のカラフルな波線を引かれて、え、なにこれ、二部合唱すんの?  みたいな感じになるからさ、人様に指摘できるレベルでは全然ないんだけど、なんつーのかな、俺の知り合い?  そう知り合いの話なんだけど、そいつが、こんな文章あり得ないっしょ、だいたいなぁにが活字中毒の僕が文章の書き方を教えます、だよ、中毒なら文章の良し悪しなんてわかんねえじゃねーか。じゃあ質問です。アル中に高いお酒の味がわかりますか? わからない、ストロングゼロを飲むの、つって、ちえみがさ、違う、知り合いがさ、怒ってて。

  したっけ俺はそれを聞いてもちろんブルゾンに、違う、知り合いにめちゃくちゃ怒ったよ。そんなこと言うもんじゃねえよ、って。他人を批判するのは良くないってわかって欲しくて、どうしても気付いて欲しくって、そんなことしたくなかったけど本人のためを思って原付で轢いた。二段階右折して轢いたから、正面からと左側からの計二回轢いたし、その知り合いも最後には思い直してくれたようで、ずっとダメウーマン……ダメウーマン……つってた。

  ていうかほんとね、餅は餅屋にって言葉があるように、文章のことは活字中毒者が一番よくわかってっから。お酒のことはアル中に、薬のことはシャブ中に、株式以外のことは、それ野村に聞いてみよう。(コンッコンッ)つって、まあ、俺もこうやって一応なりとも文章を書いてるわけだからさ、その活字中毒で文章フェチの某有名ブロガー様の文章を参考にね、自分の文章のどこがダメなのかってことを考えて、文章力?  っつーのを鍛えたいと思います。いやあ、ほんと、勉強勉強の毎日ですヮ。

  (ちなみに以下の文は引用先を特定できないように、表現の一部や文章構成を文意が損なわれない程度に変更しています。)

  僕は他人の文章を読んでいると、中々内容が頭に入ってこないような違和感を覚えることがある。それは書き手の文章構造自体の欠陥や語彙力の無さに起因する表現力の脆弱さ等に原因があるのです。例えると句読点の位置やリズム感の無さの様な感覚や語順や適切な単語を配置出来ないという問題が大きな理由です。(以下略)

    大きなお世話だろうけど、マジでその人はこんな文章を書いてますからね。なんともまあ高尚な文章で、とてもじゃないですが頭に入ってこない、じゃない、深遠というのか玄妙というべきか、ははーん、活字中毒者はこんな文章を書くのね、って感動した。芥川賞に応募しちゃおっと。俺は今まで文章を「そうでないとあり得なかった言葉の順列」と思ってきたし、そういう意味では正解というか完成というか、文章には必ず目指すべき一つの最終形があると信じていたんだけど、まあ、なんというか、そうじゃない可能性もあるかもしれない、っつーことで、これをお手本として一文一文読み解いていきたい。

  僕は他人の文章を読んでいると、中々内容が頭に入ってこないような違和感を覚えることがある。

 めんどくせえ格式高い文章というのが一見の感想なんだけど、まずこの人の文章の大きな特徴として漢字をできるだけ閉じるくせがあるみたいで、こういう人ってよく見かけるんだけど、正直使いこなすのって中島敦くらいの文章力がないと独りよがりに見えんじゃないの、って。

例えば君が文章を書く時、

たとえば君が文章を書く時、

何処に注意を払うべきか

どこに注意を払うべきか

僕はきちんと伝えたはずだ

ぼくはきちんと伝えたはずだ

  で、俺にはそんな文章力もないし、そもそも短期間で消費し続けられる文章ならばという意味において、漢字を適切に開く意図をちゃんと看破してくれている、と信じてブログを書いてきたし、これはほんと、文章力とかその段階にさえ達していない話だと思ってたんだけど、でも早速これは間違いだったようです。漢字は閉じると閉じるだけ良いみたい。文章フェチが言うんだから間違いない。間違い無い。

  と、こうやって長々と書いてるとキリがないからどんどん指摘してくけど、違和感を覚える、これさ、使う人ってすごく多いじゃん。いや、わかんだ。「違和感を感じる」はたしかに「返信を返す」みたいな違和感があるし、感じるを覚えると置き換えることでその違和感を少なくしようとする、みたいな意図はさ。でもでもこれって同じ意味の言葉に置き換えても、それは「返信を返す」を「リプライを返す」に置き換えてるのとおんなじなわけで構造としてのおかしさは変わんない。

  上で書いたように、こういう重複のような修辞技法は使いこなすのがとても難しくって、たとえば、違和感がある、とか、違和感を抱く、みたいな別の言い換えを使うほうが無難じゃないのかな、って。まあ、そもそも、この文章の流れの中で違和感っつー言葉が出てくることこそが違和感なんだけど。

  こういう感じのね、この程度の揚げ足どりでブッてんのがトーシローだわ。ほんと。「文章は長けりゃ長いほど強い」と思ってる馬鹿が考えそうなことだよな。しかも今のがたまたま川柳になっちゃってるところとかも本当にダサい。俺なんて偶然ダサ歌人ですわ。偶然ダサ歌人が活字中毒者にダメ出しなんて、釈迦に説法もいいとこなんだよ。まさか文章フェチともあろうお方がこんなところで躓いているはずがないんだしさぁ。いやもしだよ、もし万が一、そんなことはあり得ないんだけど、そこに注意を払わない人が活字中毒だの文章フェチだの名乗ってるなら、それは本当に、頭痛が痛い、話だよ。

  当然この活字フェチの方はそんなことすべて知ったうえで使っているはずだし、そもそも「重言」っつーのは強調のためだったり語調を整えるためにあえて用いるケースだってあるわけで、この場合やはり「違和感を覚える」とあえて表記してるのにはなんらかの理由があるはず。と、思って文章を精読していると、やはり、巧妙に言葉遊びと社会風刺が織り込まれていることが判明した。「覚える」の次に注目すると、

違和感を覚えることがある。

 仕掛けの肝の部分、「ことがある」に繋がっているわけなんだけど、これって少しまわりくどい表現だと思わない?  「を覚えること」なんて書く必要は本来ない部分なわけだし、ならどうしてだよっつーことなんだけど、実はこれ「覚えることがある」と「OLことガール」で韻を踏んでるんだよね。見えてました?  ここまで。

中々内容が頭に入ってこないような違和感、OLことガール。

  もうお分かりですよね。昨今の、OLでさえも女子という言葉でひとまとめにされてしまうことへの違和感と危機感、衆愚の言葉に対する無関心さに「OLことガール」という具体例を提示して、彼は文章構造とその遊びを使い、文章の力、そして言葉の楽しさを我々に見せようと試みる。事実、彼は文章構造自体にやおら話を移す。

それは書き手の文章構造自体の欠陥や語彙力の無さに起因する表現力の脆弱さ等に原因があるのです。

  縦しんば絮説と言われようと彼は敢えて迂遠な文章を重ねていく。彼が指摘した読みにくさの原因を、今まさに書かれている文章上で再現することで、鮮やかに読者に追体験させ、その上で「起因」と「原因」で脚韻を踏む余裕を見せつけるだけでなく、なんと「起と原を踏む」と三歩目まで彼は脚を出している。

  朗々と紡がれた彼の文章を読んだ時、自然と涙が溢れた。私は文章というステージの上で、たしかにタップダンスの神様Bill "Bojangles" Robinsonを見たのだ。

  しかし、あるいは彼の文章に対してこんな意見があるかもしれない。[いやいやちょっと待てよ。この文章を単純化すると「違和感を抱くことは書き手の表現力の脆弱さ等に原因があります」っつー文章になるわけでしょ。なんだこれ。百歩譲って「違和感を抱くのは書き手の表現力の脆弱さ等が理由です」ならわからなくもないが、文章フェチなら原因と理由くらいちゃんと使い分けてくれ。したらその長々と書いたその文章は「その理由は書き手の表現力の脆弱さにあります」に収まるよ。あと、等、な。文章構造自体の欠陥  や  語彙力の無さ  に  起因する  表現力の脆弱さ等  って。二つの要素を包括するなら最後を複数にするなよ。あと文章構造自体の欠陥と表現力の脆弱さが関連しているように思えないし、そもそも表現力の脆弱さってなに、脆さ、関係ある?  なんで普通に、その理由は書き手の語彙や表現力の不足、そして文章構成力そのものにあります、って書けねえんだ。馬鹿が難しい言葉を持て余した結果、より馬鹿さが浮き彫りになっちまってるよ。塩かよ。スイカの馬鹿塩かっつーの。あともう最後にするけどせめて「だ、である」と「です、ます」のどっちかで語尾を統一するくらいはしてくれ。小学生じゃねえんだから。お受験をする小学生じゃねえんだからさ。スイカの馬鹿塩小学校を受験するんじゃないんだから。]と。

  くだらない。このような何の詩情も解さない哀れな杓子定規ボーイに対して、彼はなおも優しい口調で問い続ける。言葉とは。文章とは。そして人生とは——。

  折しも彼が辿り着いた答えは実に明快だった。

例えるならば句読点の位置やリズム感の無さの様な感覚や語順や適切な単語を配置出来ないという問題が大きな理由です。

  ——混沌(カオス)。

  熱烈冷諦に言語と向き合い続けたルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインはその後期、言葉の本質を「言語ゲーム」とメタ的に捉え、言語以前の記述されていない世界を「混沌的」と云った。その思想は今もなお言語哲学者に大きな影響を与え続けているが、ただ一人、誰よりも言葉を愛しているブロガーだけが、ウィトゲンシュタインとは違う世界を描いてみせた。即ち、言葉もまた混沌的である、と。

 慨世の士として「喩える(譬える)」を「例える」と誤変換して見せ、助詞本来の「文章を助ける」という働きをあざ笑うかのように羅列された「の」と「や」。もはや文章から読点は消え、リズム感は愚弄され、その語順が考慮されることはない。では、これは文章ではないのか?  そもそも文章に優劣はあるのか?  絶対的な正解は?  読みやすさは文章の至上命令か?  天ぷらにして不味い野菜なくない?

  言わずもがな彼が投げかける問いはあまりにも単純で明快だ。しかしそれ故に誰も今まで答えを探ろうとはしなかった。彼一人がそれに疑問を見出し、打破を試み、言語の再構築を志した。わたしは己の無知さを恥じた。これまでに書き連ねてきた文章の悉くを消そうとさえ思った。

 「つまらない男」

 シケモクを灰皿に押し付け、ブログを削除しようと決めた俺の背後から声がした。そこにはいつの間にやらグラマラスな女が立っていて、彼女は大きく溜息をつくとパソコンの画面の[本当にブログを削除しますか?  この操作は取り消せません]と表示されたメッセージを嘲笑した。

  「誰だテメー。何の価値もねえ偽物の文章を消すのは俺の勝手だろ。」

  まったくくだらないわ、彼女はそう言ってまた一つ溜息をつくと、マウスの上にある俺の手に自分の手を重ねてそのメッセージを消した。

  「偽物の文章、なんてあなたが決めることじゃない」

  「じゃあ誰が決めんだよ。テメーで決めてくれんのか?」

  「女の体は本物を知ってる。

    細胞レベルで、文、書いてる?」

 すげー強引にこんな感じでブルゾンちえみのネタに繋げてオトそうかなとか思ったんだけど全然噛み合わないし、活字フェチ様、この記事の添削と校正してくれないでしょうか?