ビキニ環礁シンジケート

書くことが楽しい

勇気のカタチ

 僕がこうじ君からその手紙を受け取ったのは、ペナントレース真っ只中の八月のことだった。

「大すきな山本せん手へ

 ぼくはこんど、手じゅつをしなければなりません。しないと命がたすからないからです。だけどこわくって、一ど手じゅつの日ににげてしまいました。かんごふさんやおやにとてもおこられました。ぼくも本当は山本せん手みたいにかっこう良くてつよいやきゅうせん手になりたかったです。だけどだめでした。だからせめて大切な手じゅつからにげないような人になりたいです。そして、ちゃんとした大人になりたいです。毎日応えんしています。また手がみをおくります。 むら山こうじ」

 病気のせいか緊張のせいなのか、少し震えた文字で綴られた短い手紙を読んだとき、僕はこうじ君をどうにか勇気付けてあげたいと思った。こんなの結局はありふれた話なのかもしれない。もしかすると、僕のファンの中には手紙を送ることさえ出来ないでいる人たちもいるかもしれないし、何かすることで僕のことを偽善者だと笑う人が現れるかもしれない。だけど何の因果かこの手紙を読んだ以上、僕にとっては、そして夢を与える仕事であるプロ野球選手にとっては、しなければならないことがあるような気がした。

 次のオフの日、無理やり時間を作って手紙に書かれていた病院へと車を走らせた。受付で自分の名前を名乗り、むらやまこうじ君をお願いします、と言おうとした時、後ろから「え!! 山本せん手!?」という大きな声が聞こえてきた。

 ばたばたと駆け寄ってくるこうじ君に、近くにいた厳格そうな看護師が、院内を走らないでください、とたしなめながらも、それでもこうじ君はそんな声など少しも聞こえない様子で嬉しそうに「ぼ、ぼく! むらやまです! むらやまこうじです!」と言った。

 呆れたような、諦めたような表情の看護師や医療事務の人たちに頭を下げながら、とりあえず場所を移そうか、と提案する。

 「こっちにイスがある! こっちこっち!」

 こうじ君に腕を引っ張られるままに着いて行くと、自動販売機といくつかのイスだけがある簡易の休憩所に到着した。

「どうして山本せん手がこんなところにいるの!? からだこわしちゃったの!?」

 休憩所に着くや否や、矢継ぎ早に質問をしてくるこうじ君に少し苦笑いを浮かべながらも、話の本題に入る。

「こうじ君が書いてくれた手紙を読んで来たんだよ。手術が怖いんだって?」

「う、うん」

 こうじ君の声のトーンが少し下がる。どうやらまだ手術をする決心はついていないらしい。

「怖いのかい?」

「うん。しっぱいしたらしんじゃうかもって」

「でも手術をしないと助からないんだよ?」

「だけど……山本せん手はこわくないの?」

「試合が、かい?」

「うん。三しんしたらチームが負けちゃうときとか」

「そりゃ僕だって怖いさ。いつも怖いんだよ。だけど力一杯振ることにしているんだ」

「どうして?」

「振らなかったら三振になっちゃうからね」

 こうじ君は目からウロコが落ちたみたいに目をぱちぱちとしながら、ふらなかったら三しんになる、ふらなかったら三しんになる、と何度か繰り返して、やがてけらけらと身体をくの字に折って笑い始めた。この時だけは、こうじ君がなんの変哲もないただの少年のように見えた。

「そうだよね。ふらなくてもけっきょく三しんなら、ふらないとそんだよね。そん」

「そうだよ。少しは勇気が出たかい?」

「うん! でもやっぱり……」

「それじゃあこうしよう。明日僕は思いっきりバットを振ってホームランを打つ。そしたらこうじ君も手術を頑張る。どうだい?」

「うん! わかった! それならぼく、がんばる!」

 先ほどまでの不安なんてまるで嘘だったみたいに目をキラキラさせるこうじ君はそれからしばらく他愛のない話をした後、やって来た看護師に連れられて診察室へと戻って行った。その道中、何度も僕の方を振り返ってはぶんぶんと音がなりそうなくらい手を振りながら。

 病院からの帰り道、ずっとこうじ君のことを考えていた。まるで病気なんて患ってないような、一人の純粋な野球少年の目をしていた。あの頃プロ野球選手を夢見ていた小学生の僕と、まるで同じ目だった。それが嬉しくて、同時に悲しかった。

 こうじ君だって本当は怖いはずなのに、あんなにも目をキラキラとさせて明るく振る舞い、そして夢を諦めながらも、なんとか自分を奮い立たせて手術に挑もうと決意した。僕はこれまで情熱を持って野球を続けてきたし、模範的ではないにせよ、チームとファンのことを一番に考えて正しい選手であろうと努力してきたつもりだ。それでもこうじ君のような強さが自分にあるのかと自問すると、答えられなかった。

「勇気付けるつもりが逆に教えられてしまったな……」

 自嘲気味にそう呟くと、思考を切り替えるように明日の試合でなんとしてもホームランを打つと固く決意した。

 翌日の試合は長く膠着状態が続いた。一回の表に相手チームが一点を取り、二回の裏にうちのチームがその一点を取り返したあとは、お互い一歩も譲らない展開が続いてついに一対一の同点で九回裏を迎えた。

 二死、走者なし。

 まるで用意されたようなシチュエーションで僕に打順が回ってきた。今日の成績はこれまで三打席無安打。ゆっくりとバッターボックスへと入り、遠くにあるスタンドを確認する。こんなにも晴れ晴れと、そして高揚している自分は随分と久し振りだった。あるいは初めてプロの打席に立った時以来かもしれない。

 柄にもなくバットをスタンドに向けて真っ直ぐ掲げる。それに応えるように、観客からはバットが震えるくらいの歓声が返ってきて、その時初めてバットが震えているのは歓声ではなく、自分の身体が原因なんだと気が付いた。それが武者震いなのか恐怖なのかは分からない。だけど僕は悪くないと思った。

 しっかりとバットを握り直して、ピッチャーに集中する。こうじ君。僕だって本当は逃げ出したいくらい怖いんだ。だけど、そんな時ほど力強くバットを振ることにしている。だって――

 「ヒーローインタビューです。お待たせいたしました。本日は、見事ホームラン宣言後にサヨナラ本塁打を放った山本選手にお越しいただいております!」

 割れんばかりの歓声が轟く中、お立ち台でファンとカメラの向こうに居るであろうこうじ君に向かって手を振る。

「最後の打席、普段の山本選手からは想像もできないようなホームラン宣言の後、見事ホームランを打ちました。あれにはどういった意味があったのでしょうか?」

「実は今日の試合は僕の大切なファンとの約束がありました。そのファンはこうじ君といって、近々大変難しい手術に挑む予定です。そんなファンの一人一人に、少しでも勇気を与えられたら、という一心でバットを振りました」

「そうでしたか。それではそのこうじ君に何か一言かけてあげてください」

 すうっと静かに深呼吸する。こうじ君。僕だって本当は逃げ出したいくらい怖いんだ。だけど、そんな時ほど力強くバットを振ることにしている。だって――

「怖くてもバットを振らなきゃ三振になるぞ!!!! 絶対に負けるな!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

登場人物紹介

山本選手(32)プロ野球選手

村山浩司(58)外科医