春の樹からの使者
※今回の記事は、知り合いの某有名作家から身元を明かさないことを条件に寄稿されたものです。
ハンブルグ空港でサンクトペテルブルク行きのボーイング747を待っていると、突然自分がひどく空腹だったことを思い出した。近くにあった適当なカフェテラスへ入って、レタスとハムが几帳面に挟まれた新鮮なサンドイッチを注文すると――世の中にある全ての新鮮なサンドイッチがそうであるように――それは、僕の中の空腹と孤独とを一滴一滴しぼりとる脱水機のように作用した。
手頃な席に座り長い間触っていなかったパソコンを起動してみると、たくさんの自分宛のメールの中から一人の友人の名前を見つけた。
「突然で申し訳ないんだけど、君に頼みがあるんだ。僕には今悩みがあって、そのことについて僕なりに長い時間を掛けて考えていたんだけど、どうやら君にしか解決できないものらしい。根拠を説明しろと言われても、同じだけの時間をかけたとしても僕にはその半分の理由すらも説明できないのだけれど。とにかく僕は今ひどく混乱していて君の助けが必要みたいなんだ。
どうか何も訊かずに僕の代わりにブログを書いてくれないだろうか。もちろん選択肢は君にあって、これを断ることも断らないこともできる。だけど君は、いずれにせよ決断をしなければならない。こんなことを君に強いることになってしまったのは本当に心苦しいんだ。だってそうだろう? 友人を悩ませることは僕にとって、少なくとも楽しいことではないのだから。
とにかく君からの返事が届くまではもうしばらく一人で頑張ってみるつもりだ。君がいなくても更新さえすれば本質的にはブログは続いていくし、それは完璧な形ではないにせよ、僕の望むことだからね」
メールを読んでいる途中、気取ったフランス料理店の支配人がアメリカン・エクスプレスのカードを受け取るときのような顔つきをしたウエイトレスがサンドイッチを運んでくれて、僕はメールを読み終えたあとにもう一度頭から読み返して――その結果サンドイッチからはいささかの新鮮さが永遠に失われた――サンドイッチにかぶりつきながら、やれやれ、と呟いた。
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とにかく、そのようにして僕のブログをめぐる冒険が始まった。選択肢は僕の手元に、まるで初めから水槽の中に存在している砂利のようにあって、そして僕は決断した。いずれにしてもそうしなければならなかったのだ。サンドイッチを食べ終えてもう一度メールを読み直した後、なんとなく僕はすぐにそれを書かなければならないような気になったし、あるいはそんな気にはなっていなかったのかもしれない。そんなことよりもはるかに重要だったのは、悪い予感というものは良い予感よりもずっと高い確率で当たるということを僕は知っていて、書かないという選択が僕にとって何か悪いことを象徴するメタファーのように感じたということだった。いずれにせよこの続きは僕が無事にサンクトペテルブルクに到着して、そこでとびっきり熱いコーヒーを飲んだ後にもその予感が続いているのなら書くべきなのだろう。
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正直に言って僕は今ひどく疲れているし、昨日から今日にかけて起こった出来事をここに書くべきなのかどうか今も分からない。君からのメールを受け取ったことがこの奇妙な出来事の原因だったのだとしたら、あるいは僕はこんなメールを受け取るべきではなかったのかもしれない。そして、残念なことに悪い予感はずっと続いていて、それどころか今となっては確信に近いものになっている。もし君の言う通り、この奇妙なできごともこのブログと同じように本質的には続くものなら、なおさら僕は正直に語らねばならない。品のいいアードベッグ・スコッチを飲みながら、やれやれ、と僕は呟いた。
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飛行機に乗り込んだ後、僕は機内のオーディオプログラムの中でローリング・ストーンズの特集をしている番組を聴きながら、キャビンアテンダントから品のいい動物の清潔な内臓のひだのようなブランケットを受け取った。コンクリートを力いっぱい引っ張ったような雨雲を抜けた頃、僕はローリング・ストーンズを聴きながら少しぼんやりとした気分になっていた。そうやってしばらく退屈で骨の折れるような時間を過ごし、眠るために備え付けのテーブルを戻そうかと考え始めた頃、突然横から肩を叩かれた。
「あなたって本当に自分以外には鉄板みたいに興味がないのね」と彼女は言って、僕を見ながらしかめた顔をした。
僕はとっさに返事ができなかった。彼女がここにいる意味を真剣に考えてみようと思ったけど、結局諦めて「どうして君がここにいるんだい?」と言った。
「あら、あなたと同じよ。ハンブルグ空港でサンクトペテルブルク行きの飛行機に乗ったの」
「つまり君は今までハンブルグに居たってわけ?」
「私もこの座席に座った時、今のあなたと同じことを思っていたのよ」と彼女は言った。「数十分も前のことだけど。ねえ本当に私だって気付かなかったわけ?」
「考えてもみなかった」
「あらそう。ねえ私が今何を考えているかわかる?」
「見当もつかない」と僕は言った。「でもお願いだから、もう少し声のトーンを落としてくれないか? ここは飛行機の中で、僕達の他には誰もこんな風に話してないんだから」
「あのね隣に座った時、私は一目であなただって分かったわ。でもあなたは変なブランケットを受け取った後、すぐにヘッドホンで音楽を聴き始めて雨雲の中でもちっとも目を開けなかったでしょ。あの時あんなにも揺れたにも関わらず。私とっても不安だったの」
「ふむ」
「よっぽどあなたに話し掛けて手を握ってもらおうと思ったくらいに。本当よ。だけどそんな私になんかちっとも気付かないで、あなたはテーブルをあげて寝ようとしたじゃない?」彼女は小声で言った。「あんまりに腹が立っちゃったから思わず話しかけちゃった」
「それは本当にすまなかった。つまり僕は少し疲れていて」
「あら許してあげるわよ。その代わり少し付き合ってちょうだい」
やれやれ、と頭を抱える僕のことなんか気にせずに、彼女はキャビンアテンダントに頼んだウィスキー・コークを二杯立て続けに飲んで、それからシャンベルタンを頼んだ。
「何か話をしてよ」
「どんな話がいいわけ?」
「ねえ突然だけど今から私のことを考えながらマスターベーションをしてくれない? それでどうだったか聞かせて欲しいの。そういうのってすごく楽しいと思わない?」
「思わないね」
「そうかしら? でもとにかく私はそう思うのよ。男の子っていつもどんなことを考えながらするわけ?」
「少なくともこうやって誰かにお願いされて飛行機の中でするものではないだろうね」
「あら、でもそれってとても素敵だわ。狭い部屋で自分一人でするのなんて退屈で惨めじゃない」
「あるいはね」と僕は言った。「だけどマスターベーションは本質的に退屈で惨めなものなんだよ」
彼女は真剣な顔でそのことについて考えているようだったが、しばらくした後に「ねえ本当にしない?」と言った。
「こんなことで捕まりたくないんだ」
「あらばれないわよ。そのためにブランケットがあるんじゃない」
「君は今日少しおかしいよ。酔っているしこんなところで知り合いと再会したから、つまり、少し興奮しているんだ」
「お願いだからこんなことで私を嫌いにならないでね。それって涙が出ちゃうくらいつまらないことだから。でも違うの。欲求不満だとか挑発的になってるだとかじゃないの。本当に。だけど私ってずっと女子校だったでしょう? 海外を飛び回ってると恋人もできないし。あなただってそうでしょう?」
「わかる気がする」
「だからずっと気になっていたのだけど、誰にも訊けなかったの。だってこんなことをまさか上司やお父さんに言えないでしょう? そんな時、あなたがこうやって私の隣に座っていたの。これって奇跡だと思わない?」
「そうかもしれない」
「あなたがしてくれないなら私、今から大声で泣き始めて他の乗客一人一人にあなたに言ったことと同じことを言うわよ」
「勘弁してくれよ」と僕は言った。
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サンクトペテルブルクは雪が激しく降り、殆ど前も見えないくらいだった。街全体が冷凍された死体のように絶望的に固く凍りついていた。 僕たちはどちらから誘うでもなくホテルへ入った。この街ではそうするのが正しいのだと僕は思ったし、彼女もそう思ったようだった。僕たちはそのことに少しの疑問も持たなかったし、閉園後の動物園で、飼育員に誘導されながら飼育小屋に戻る動物たちみたいに当然のことだった。
「ねえ今から私たちはあれをするわけでしょう?」と彼女が言った。「私うまく出来るか心配なの」
「ふむ」
「あなたのことが嫌いなわけじゃないのよ。私の個人的な問題なの。つまり風のある日に煙がまっすぐ立ちのぼらないみたいに、私にとってはそれがごく自然なことなの。私の言ってることってわかる?」
「わかるよ」
「そう。それじゃあキスをしましょうか」と彼女が言った。僕たちは二つのスプーンを重ねたみたいに、あるいはお互いがお互いの水分を吸収しようとくっついたスポンジみたいに、そうすることがごく自然なものとして存在した。
「ねえやっぱりダメみたい。私こんなにも熱くなってるのにちっとも濡れないのよ。私のこと嫌いになった?」
「まさか。そりゃ少し残念ではあるけれど」
「あなたってたまにすごく正直よね。でも私あなたのそういうところって好きよ」
「そりゃどうも」
「ねえ私のことは好き?」
「好きだよ」
「どれくらい好き?」
「世界中のリスが木の実を隠すために穴へと戻ってしまうくらい好きだ」
「それって凄く素敵ね。私今すごく嬉しいのよ。あなたのことをたくさん訊かせて欲しいの。ブログってしてる?」
「していると言えばしているし、していないと言えばしていない」と僕は言った。「ふうん」と彼女は言って、それから、何か話したくないことがあるのね? と言いながら僕のペニスを優しく握った。
「正直に言うと話したくないね。つまり複雑に事情が込み入っていて、うまく説明できる自信がないんだ」
「そんな事情があってもブログは続くものなの?」
「本質的にはね」
「ねえ私が今何を考えてるかわかる?」
「さっぱり見当もつかないよ」
「あなたに射精して欲しいの。そう思わない?」
「僕も思うよ」
「本質的に?」
「そう、本質的に」と僕は言って、そして何の予兆もなく突然射精した。それは押しとどめようのない激しい射精だった。
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「このこともブログに書くわけ?」と彼女は、冷蔵庫から取り出した青いバルチカの缶を開けながら言った。
「書くかもしれないし書かないかもしれない。いずれにしても僕はブログに対してあまりにも多くのことを知らないんだ。同時に君自身に対しても」
「あなたは今ひどく混乱していて、あまりにも疲れているのよ。きっと朝起きたらあなたはパソコンを起動して今日のことをブログに書くわ。私にはそういうことって全部わかるの。そして、私はそれを楽しみにしていて、私のことをあなたがどうやって書くのかってことにすごく興味があるの。本当よ。だからちゃんと前向きに考えてちょうだい?」
「努力はするよ」
「それじゃあおやすみ」と彼女はにっこりと笑って言った。
次の日の朝、彼女は忽然と跡形もなく居なくなっていた。だけど僕はこれといって動揺はしなかったし、そのことについて心を激しく痛めるようなこともなかった。彼女は消えるべき存在だったのだ。あるいは彼女は消えてこそ、本来的な価値を得るものだったのだ。僕はそれをごく自然に理解していたし、そして同時に、彼女が永遠に僕の前に戻ってこないであろうこともとてもよく理解していた。
何度か彼女に電話をコールしても、病院の霊安室みたいなわかりやすい静けさが続くだけで、僕は結局、クリスマスの朝に子供がプレゼントを見つけたあとの空っぽの靴下のような部屋で一人ストレッチをすることに決めた。入念に一つ一つの筋肉をほぐした後、シャワーを浴びて汗を流すとパソコンを起動した。
僕はたしかに決断をしたし、そして決断にはある種の責任が発生する。そう考えると、今すぐにでも書かなければならない気になった。深い井戸の中にいる僕の背中を、よく目を凝らさないと見えない武士が何度も何度も斬りつけてくるみたいに、自分の身に起きたことをできるだけ正直に語らなければないと思った。
僕にはそれ以上うまく説明できないのだけど、いずれにしても僕がどう感じたとか、何を選んだとかに関わらず物語は進んでいくものだ。僕の手から物語が離れようとも、あるいは物語が僕抜きでも本質的に続くものだとしても、僕は決断をしたし、またそうしなければならなかった。やれやれ、と肩をすぼめてみせる。知らない間に美女が蓄えた脂肪みたいな雪が降る中、僕の部屋のラジオからはローリング・ストーンズの『ブラウン・シュガー』がまた流れていた。
ここまで書いておいてなんですけど、全部嘘です。