ビキニ環礁シンジケート

書くことが楽しい

最後の桜が散るまでに

 「あの、よろしくおねがいします」

 小さくおじぎをした彼女が少し緊張していたのを覚えている。大学の後輩で、誰かにくっついて、知らない人ばかりの僕らの飲み会にきてくれた子だった。

 桜の季節ど真ん中、出会いの春なんてかこつけて失恋したばかりで傷心中の僕のもとに知っている子と知らない子が10人くらい、特に桜を見るわけでもなく、ただいつもみたいに僕の家に集まって、みんな好き勝手していいからねーなんて仕切る人に、ここの家主は俺だからなんて笑って、まあいつもの、特に何の変哲もない日だった。

 花見行きたいなー、でも今から行っても場所なんか空いてないよねーなんて、そんな話を一人の友達としながらちょうど空になった缶ビールを潰して、何気なくスマホを取り出した時にベッドの上に座って飲んでいた別の女友達からいきなり話しかけられた。

「それ、あんたのスマホの画面割れすぎだって。ちょっとやばくない? ちゃんと直しなよ」

 たしかに僕が持っていたスマホの画面はかなり割れていて、でも使えるからまあいいか、最新機種だから修理とか高そうだし、とか思いながらも、まあでも直すべきだよなってそんな気もした。僕はそんなことあまり気にしてなかったけど、言われてみるとまあ、そうかな、みたいな。

「そうなんだけどね。すぐまた割っちゃいそうだしさ」

 とりあえず冷蔵庫から新しい缶ビールをとるためによっこらしょっと立ち上がって、げっ、もうビールないじゃんとか言いながら、ほろよいを取り出してぼんやり飲んでいると、初めに小さくおじぎをした子がそそそっと僕のそばに来て、自分のスマホを見せてきて「私の、も。も? かな? 割れちゃってる疑いありです」と、元気出してねみたいな感じでにこってして、わざわざそんなこと言いに来てくれたの? ありがとうって思わず俺も笑っちゃって、実はもう一つあるんですけど、

「私、缶ビール苦手で、あの、なかなか減らないんで、そのほろよいと交換してください」と恥ずかしそうに言った。

 一通り笑い転げた後にどうぞどうぞありがとうってお互いの缶を交換して、じゃあ改めて乾杯ねって、缶はかちんと鳴って、僕は一発でこの子のことが好きになった。そんな風な出会いがあって、僕はとても自然に彼女の行動や仕草に可愛らしさを感じたし、彼女はまるで僕になつくように連絡をくれるようになった。

 それから彼女とはたびたび遊びに出掛けるようになって、そんな時、僕はいつも彼女の左手側にいて、彼女は僕の右手側にいた。右利きの僕と、左利きの彼女とはそうすることで強く、固く結びつくように思った。少なくとも、その頃の僕はそう感じていたし、少しも疑うことはなかった。僕は何度か彼女の左手を握ったし、そして彼女はたまにその手を握り返してくれた。僕はそれが嬉しくて彼女の顔を覗き込み、すると彼女もつられてこっちを見る。幸せだった。付き合おうとかそんなことは口に出さず、代わりに僕は彼女に「ずっと一緒にいようね」と何度も言って、そのたびに彼女は不思議そうに、うん、と頷いた。

 前の彼女にこっぴどく振られて、恋愛とか付き合うみたいなことが信じられなくなっていて、これ以上傷つきたくなくて、僕は彼女の気持ちに気付きながらも鈍感な振りをし続けて、もう少しだけこのぬるま湯のような関係が続くように、そうやって時間を引き延ばして引き延ばして、甘え続けていた。

 僕と彼女は僕の小さな部屋に居る時も、いつも隣りあわせでベッドを背もたれにして座った。足を投げ出して、真ん中には灰皿があって、そしておそろいのマルボロライトと一つの淡いブルーのジッポ。そこが僕らの定位置だった。僕の右側に彼女、彼女の左側に僕。そうやっていると彼女の顔を直接見ないで済んだし、彼女のことを正面から考えることを先延ばしにしていられると、そんな風に思っていた。

 彼女は何度か僕に料理を作ってくれた。パスタが好きな僕の要望に応えようと一生懸命に食材を選び、そこにひとひねりの彼女らしさを織り交ぜて、僕が好きなにんにくがきいたスパゲッティを作ってくれた。彼女の手はそんな時いつもにんにくの匂いがして、彼女の髪の毛はいつもあたたかな匂いがした。それは大人の女の香りとは違ったし、かと言って、小さなこどもの匂いでもなかった。「おひさまだよ。おひさま」彼女はそういって笑って、そして指にくんくんと鼻を近づけ「今日もにんにくの匂いだ」と言った。僕は彼女の髪の毛の匂いも、にんにくの匂いがする少ししめった手も大好きだった。

 大きな皿にパスタを盛り、テーブルの上においてくれる。僕が先に一口ほおばり、彼女はキッチンで「どーですかー」と言う。

 僕は彼女のそばまで行って、そして耳元で、やや元気よく、すっごくおいしい、と言った。

「やったー!」

 両の手でピースして、そのピースをぐにぐにと曲げながら僕らは笑いあった。そしてまた隣り合わせて座ってフォークを握り、元気よく同じタイミングでお皿へとフォークを伸ばした。

 僕の右手と彼女の左手は何度もぶつかる。

「あっ逆に座ったほうがよかったですね。手が」彼女はそう言った。

 うーん、このままでいいや。

 もう少し。もう少しだけこうしてたい。結局僕がその時何を考えているかなんて彼女はよくわかってなかっただろうし、僕も彼女が大切にすることをわかってなかったのかもしれない。その頃のことをどう思い返しても、どんな場面を切り取ってみても、彼女はいつも笑っていて、器から溢れてしまいそうな温かな冬の日の張り湯みたいな、こぼれてしまいそうな笑顔しか浮かんでこない。

 僕は絶対とかずっとみたいな言葉をよく使った。そんなものありえないってことくらいもちろん僕も知っていたし、だからこそこんなあいまいな関係には相応しいと思った。バランスをとっていた。あるいは、せめて強い言葉で自分を慰めたかっただけなのかもしれない。僕は普段から使う言葉で彼女と接することができなかった。

 僕らはいつでも隣り合わせだった。しっかりと手をつなぎ、僕は自分の手に汗を感じ、そして彼女の手にもそれを感じた。 僕たちは同じ景色を見ていた。しっかりと、離さないように握った彼女の手の体温を頼りに僕は歩いた。

 僕があんまり強く彼女の手を握っていたから、一緒に見ていた同じはずの景色に、僕たち自身は映らなかった。僕たちは鏡に映った自分と相手を、自分自身と相手自身だと思っていたのかもしれない。鏡の中の僕は少しいびつな冷静さで彼女を守ろうとしていたし、鏡の中の彼女は照れながら、まだ自分の魅力に気づくことができずにいたのかもしれない。

 腕の中に抱きしめたときでさえ、僕は手を離すことはなかった。僕の胸の中でこぼした彼女の涙に気づかないまま、つないだ手のひらと手のひらをとても幸せに、抱いたちいさな両の肩をひどく愛おしく感じた。とても悲しいことだけど、身体を重ねることは彼女にとって、身体に触れる僕の腕は彼女の意識にとってはぬくもりよりも冷たくて、彼女の意識の外にある身体にとっては熱すぎる、他人の自分勝手な欲望そのものだった。

 あの夜も、僕が強く抱きしめていたあの夜でさえも、彼女は本当は独りぼっちだった。そして彼女は疲れてしまっていた。いろいろなことに、ひどく。たくさんのことに、ふかく。一番そばにいたはずの僕は、彼女のことを守れなかった。気付こうとさえしなかった。僕はただ彼女のことを欲していた。欲しがるばかりだった。

「もう、会えません」

 送っていった桜ヶ丘の駅で、僕が聞いたその声はいつもと同じ少し鼻にかかった幼い声で、いつものちいさなえくぼを見せた、それでもきっとそれは精一杯の笑顔で、大きな瞳には涙をいっぱいにためていて、そこにははじめて僕が、自分のことばかり考えている僕が映っていた。

「あなたがどうしたいのか、わからないです」

 春の花は強く咲きこぼれ、雨を待たずして散ってしまった。その花の淡い花芯は、静かにひっそりと涙を流し、そして、目の前から消えてなくなってしまった。最後に見た笑顔が、悲しいはずの散り際の花が、一番きれいだった。そんなこと言わないで、ほら、ずっと、さ。

「こんな関係なら、ずっとなんか、続かないです」

 彼女は、本当に真正面から僕の言葉を受け止めてくれていて、だけど僕が彼女にかけた言葉たちは、そうやって受け止めるにはあまりにも重すぎて、ぼろぼろになった手と心で、それでも彼女は最後まで待ってくれていた。どうして。どうして、なら、ずっと笑顔で居たのさ。あんな言葉を真に受けるほうがおかしいよ。ほんとにずっとってあると思ってるの? 僕にはもう、彼女を傷つけることでしか、自分を確かめることが、慰めることができなくなっていた。

「私はずっとってちゃんとあると思ってるよ」

 それでも彼女は、これだけ傷つけられてもなお純粋なままで。優しくて。強くて。だから。

 もうきっと会えないけれど、きっと、幸せになっていく彼女。幼くて可愛い彼女が、きれいになっていくのが切なくてせつなくて、だから。彼女の言う通りにお別れしよう。これっきりにしよう。

「最後にキスだけしてくれませんか」

 笑いながらそう言った彼女の手を、やっぱり僕は自分から離すことはできなかったけれど、それでも彼女のことを初めて正面から見れたような気がした。もう何もかも遅いけど、正面から見た彼女の顔は、思い出の中の、僕だけの想像の中に居た横顔じゃなくて、それでも想像していたよりもずっと美しかった。

「実はこれ、ファーストキスですから」

 唇を離したあとに彼女が小さな声で言ったその言葉の意味を、今はもう確かめるすべがない。僕たちの手は確かに離れ離れになって、彼女は僕からはもうどれだけ手を伸ばしても届かないところへ行ってしまった。

 きれいになってゆく彼女のことを、幸せになってゆく彼女のことを、二度と聞くことのできないあの笑い声と、もう二度と見ることのできない笑顔を、大きな瞳を、くっきり浮かぶちいさなえくぼを、いっつも弛んでいた可憐な唇を、まっしろで折れちゃいそうな肩を、彼女を、ほんとうの気持ちを、僕は知ることも無かった。僕は何も見ていなかった。

 難しいことじゃなかったのだ。信じればよかった。ただ、正面から抱きしめて、それから歩いていけばよかった。幸せにしてあげたかった。できることなら僕の手で。そうなってほしかった。

 雨の降る日、桜ヶ丘の商店街にはあの時と同じようにぽつりぽつりと明りが灯りだして、隣の八百屋に張り合うように野菜ばっかり並ぶスーパーの前を、ペットボトルばかりがうんざりするほど並ぶもうひとつのスーパーの前を、ひどく薄くピザを焼くレストランの前を、水みたいなカレーを出す洋食屋の前を、ビールやワインを買った酒屋の前を、友達と同じ名前の靴屋の前を、強く走った。息が詰まるほど、声にならないほど、涙を流しながら、僕は走った。他にはそうするしかなかった。 

 桜ヶ丘の町の隅々が、いちいちが、僕に何かを思い出させて、僕はその都度女々しく胸を痛めた。それでも、もう、僕にはそうするしか思い付けなかった。彼女と初めて出会った僕の部屋、彼女が割れたスマホを見せてきて笑いかけてくれたあの部屋、いつも隣り合わせで座った僕たちの定位置へ、今すぐにでも戻らなければならないような気がした。それ以外にはもう、辻褄を合わせる方法がなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一回のつもりが二回もヌいた。(感情が高ぶっていたので)